72話
エミリアは噛みしめていた唇をほどき、まぶたを薄く開いた。
ゆっくりと頭を動かし、音のした方に向けると――その目に飛び込んできたのは、壁にめり込み項垂れている女の姿である。
もつれたブロンドが顔を覆い隠し、表情は見えない。女はいちど身を震わせて壁から背を離し、床にがっくりと膝をついた。そして大きく体を波打たせたかと思うと、大量の血を吐き出す。真っ黒なそれが石の床を染めるのを見て背筋が震え、エミリアは咄嗟に上体を起こした。だが、恐怖のためか腰が抜けて足に力が入らない。
「リュシアン様……」
すがるような声で呼びながら首を回らせる。佇む彼を視界の中に捉えた彼女は、安堵ではなく喫驚の表情を浮かべた。
いつもは透き通るように青いリュシアンの瞳が、見たことのない色に変わっている。
冷たい月光を宿したかのごとく輝いている双眸……この世のものとも思えぬ絶美なる白銀は、畏怖すら感じさせる。
「自力で結界を破ったのか」
リュシアンは甘やかな声を紡ぎながらメトゥスに近づく。
「それとも、他の誰かがおまえを助けた?」
末の妹はうつむけていた顔を静かに上げた。血で染まった真っ黒な口で笑ったのを見たリュシアンは明らかな怒りを面に刻み、大きく吠える。雷鳴のようなその咆哮と共に部屋が揺れ、割れずに残っていた窓もすべて砕け散り硝子の雨が庭に降り注いだ。
外れかけた鎧戸ががたがたと不吉な音を立てる。吹き込んでくる猛烈な風に白金色の髪を揺らしながら、リュシアンは一歩、また一歩と、しまりのない顔に笑みを浮かべている義妹に近づいた。
「ものを言わず、悪さばかりする口は閉じてしまおうか……」
彼の口角が吊り上がり、唇の端に冴え冴えと光る2本の牙が覗く。
「お待ちくださいお兄さま!」
叫びながら室内に駆け込んできたのはファヴィラだ。彼女は血相を変えたままふたりの間に割って入るとメトゥスを背に隠し、リュシアンの真正面に立ちはだかる。
「退け!」
刃を思わせる怒声が壁に反響する。
「なりません!それ以上はお体に――」
言葉が途切れた次の瞬間、ファヴィラの腹から血塗れの手が突き出てきた。
ファヴィラは表情ひとつ変えず、目だけを腹部に落とした。見えている5本の指が拳をつくったり開いたりするたび、濡れた音を立てている。
ずるん、と腕が引き抜かれると、ファヴィラは口と鼻から黒い血を噴き出し床に崩れ落ちた。彼女が倒れたそのうしろには、メトゥスがゆらりと立っている。姉の血に濡れた手指を舐めしゃぶりつつ、顔を覆い隠すブロンドの隙間からリュシアンを見た。
目と目が合うと、メトゥスは兄に笑いかける。彼とおそろいの白銀の瞳を細めたまま、倒れている姉の背中を踏みしめた。
「ち……」
短く声を発し、指をしゃぶるのをやめる。
笑みを深めた彼女は大きく息を吸い込んだ。そして風のように素早くリュシアンに迫ると、四肢を広げて飛びつき首筋にむしゃぶりつく。
そうとう腹を空かせているようだが、ここで血を与えてしまえばますます厄介なことになる……リュシアンは波打つ金色の髪を鷲掴んで引き離し、横腹を思い切り蹴り飛ばした。衝撃で吹き飛んだ彼女は四つ足になってうまく受け身を取る。床にへばりつくような姿勢のままリュシアンを睨み据え、威嚇するように歯を鳴らした。
末妹を見下ろすリュシアンの虹彩がますますの光を放ち、部屋全体が激しく震え出す。地鳴りと共に壁に罅が入り床が剥がれ、陶器やグラスは粉々に割れて飛散した。
「やめてリュシアン様!」
倒れ伏したエミリアは痛みと苦しみにもがきながら、血を吐くように叫んだ。
それに反応したリュシアンが、ゆっくりと声の方に顔を向ける。限界を迎えているエミリアの目には彼の姿がぼやけて映り、その表情は判然としない。
「――だめよ、やめて……、リュシアン……」
床に肘をつき必死に立ち上がろうとしたが、体が思うように動いてくれない。エミリアは最後の力を振り絞り、リュシアンの方に手を伸ばした。しかし彼は遠く、指はむなしく宙を掻く。
室内に満ちる強烈な瘴気に侵されたエミリアは、再び床に倒れ込んだ。
地を這うような轟音が響くと共に、リュシアンの声が聞こえてくる。不明瞭だが、この国の言語ではないことは確かだ。
どこからともなく黒く血腥い霧が湧き立ち、エミリアを包み込む。視界がいっそう激しく揺れ、ひどい頭痛と耳鳴りに襲われた彼女はそのまま意識を失った。




