71話
「もう一戦と言いたいところだが……今日のところは引き下がろう。次の勝負は必ず勝つ」
悔し紛れに言ったリュシアンは、グラスを掴み葡萄酒を一気に飲み干す。大きく息をつくと、二杯目を注ぎながら言った。
「結果はどうであれ愉しませてもらった。勝者である君に褒美をやろう」
「褒美?」
「髪飾り、ネックレス、靴……ドレスでもいいぞ」
「身につけるものでなくてもよいのですか?」
「もちろん」
「では……」エミリアは上機嫌で椅子に凭れ掛かり、唇をほころばせた。「コーヒーハウスで、ミルクコーヒーというものを飲んでみたいの。叶えてくださる?」
「そんなことでいいのか」
リュシアンは肩を竦め、あきれたような声を出す。
「どこのコーヒーハウスだ?」
「ヨークエヴァに有名な店があるそうですから、そこで。ミルクコーヒーを飲んだ後に、街をゆっくり散策したいわ。あなたが以前話していた“黒い霧”を見られるかしら……」
「ヨークエヴァは駄目だ」
「なぜ?」
「あの街の空気は喉を痛める。君の美しい声を台無しにしたくない」彼はひとつ咳払いして、「宝石つきの髪飾りを買ってあげよう」
「いいえ……髪飾りはいりません」
「遠慮しなくていい」
リュシアンは本心からそう伝えたが、エミリアは首を縦に振らない。
「髪飾りよりもミルクコーヒーがいいのか?そこまで飲みたいなら、修道院に届けるようコーヒーハウスに頼んでやってもいいが……」
目を丸くしたエミリアは、勢いよくかぶりを振る。
「違います、どうしてもというわけではなく……」
めずらしくしどろもどろになっているのを見て、リュシアンは訝しげな顔になる。彼女は美しく生え揃った睫毛を伏せ、頬を薄赤く染めながら言った。
「――正直に申し上げます。ミルクコーヒーが飲みたいというのは口実です……ただ、あなたと過ごす時間が欲しかっただけなの……」
リュシアンは自分の耳を疑った。
“あなたと過ごす時間が欲しかっただけ”
そのフレーズが頭の中でリフレインする。
眉根を寄せ、彼はうつむき目を閉じた。冷えきった体に熱い血が巡るような感覚があった。
彼はすこしのあいだ、エミリアの言葉をじっと噛みしめていたが……やがて目を開き、やけに神妙な面持ちで唇を開く。
「そうか。ならば、いつでも好きなときにこの城に来るといい」
エミリアは顔を輝かせ、屈託のない笑顔を浮かべる。その表情があまりにも愛らしくて、リュシアンは思わず頬を緩め、つられたように笑った。
そのとき――彼は久しぶりに(実に400年ぶりに)、自然に笑っている自分に気づいた。意図的な笑顔を貼り付けているのではない。胸の奥から込み上げてくる温かくやわらかな感情に任せ、素直に笑っている。
この感じを、彼は非常に懐かしく思った。長いあいだ失っていたものを取り戻せたような気がした。
「君はコーヒーを飲んだことがないのか?」
「ありません。とてもおいしいものらしいとだけ、風の便りに聞いています」
「ベスタビオ州の州都パーナムに、美味いと評判のコーヒーハウスがある。ミルクコーヒーがあるかはわからないが……あの街は空気も水も綺麗だ。今度一緒に行こう」
頬を染めたままのエミリアが嬉しそうに頷く。ふたりは顔を見合わせ、微笑みを交わした。
そのときだ。
バルコニーに面する大窓が派手な音を立てて割れる。驚きのあまり硬直したまま、ふたりは同時にその方を見遣った。
粉々に散った硝子の破片と共に部屋に転がり込んできた大きな影。
エミリアの膝元にうずくまっていたトニトルスが唸りながら身を起こし、鋭く牙を剥く。
表情を醜く歪めた闖入者は四つん這いのまま、激しい敵意と憎悪に満ち満ちた目でこちらを睨んでいる。
陽光に靡く黄金の髪。瞳は白銀に染まり、長く伸びた牙を伝ってこぼれ落ちる涎が顎を濡らしている。長椅子から立ち上がり後ずさったエミリアは、その禍々しい姿を震えながら凝視した。痩せて骨張った体のせいか少年のようであったが、よく見れば女だ。破れたドレスの胸元から乳房がこぼれそうになっている。
女を睨み据えていたリュシアンがゆっくりとテーブルを回り込み、エミリアを背中に隠す。
獣じみた形相で現れたこの魔物は紛れもなく三姉妹の末の妹――
「メトゥス……」
リュシアンが低くつぶやく。声に反応したエミリアは彼の方を見上げた。その菫色の瞳は恐怖に見開かれている。
エミリアがいるためか、リュシアンは魔力を使って鎮めるのを躊躇っているようだ。
それを見兼ねたトニトルスが唸り声と共に床を蹴った。目にもとまらぬ速さでメトゥスに体当たりすると、背中を踏みつけて首の後ろに噛みつく。
皮膜の翼を広げた彼女は断末魔の叫びを上げながら飛び上がり、巨大な獣を振り落とそうと身をくねらせ暴れた。だがトニトルスはしつこく食らいついたまま離れない。首肉を骨ごと噛みちぎってやろうと、頑丈な顎でもってさらに深く牙をめり込ませる。
壁にぶつかりながら飛び回っていたメトゥスは、ベッドの下にできている濃い影に飛び込んで霧に変化し、肌に穿たれた牙から逃れる。黒い粒子のまま高い天井を勢いよく旋回すると、エミリアの頭上で再びその姿を現した。
リュシアンが反応するより早く――彼女は鉤爪が光る両手でエミリアをさらい、壁に叩きつける。為すすべもなく床にくずおれた体を組み敷き全体重で押さえ込むと、彼女の蒼白のかんばせを深々と覗き込んだ。
生臭い息が顔の表面を撫でる。喉の奥が見えるほど大きく開いた口は洞のように真っ黒だ。その闇の中にきらめく銀の牙は禍々しくも美しい。
異形の魔物に圧倒されたエミリアは、糸を引きながらぽたりぽたりと顔に落ちてくる冷たい唾液を受けたまま声も出せずにいる。
「リュシアン!」
ベッドの下から這い出したトニトルスが吼える。その声に呼応するように、リュシアンの虹彩が青白く燃えた。
エミリアを捕らえた邪悪なる者は喉を鳴らしながら笑みを浮かべ、蛇のように長い舌を唇の隙間からのぞかせる。それを見た彼女は胸の奥で無意識に神の名を唱え、きつく目を閉じた。
すべてを諦め死を覚悟したそのときだ。突如として体を押さえつけていた重みが消え去る。遠くから響いてきた鈍い衝撃音に続き、天を裂くような甲高い悲鳴が耳をつんざいた。




