70話
突然の来訪者を大喜びで出迎えたのはトニトルスであった。ちぎれるのではないかと思うほど尻尾を振りながら飛びついてきた黒狼を、エミリアは全身で抱きとめる。
「よしよし……いい子、いい子……」
頸周りの豊かな毛を両手で掻き回すように撫でながら、彼女は顔いっぱいに笑みを咲かせた。
「まったく……」あきれたようにトニトルスを睨めつけ、リュシアンは溜息まじりに言う。「狼が犬みたいに尻尾を振ったりして……みっともない真似をするんじゃない」
黒狼はそんな小言などまるで無視して、エミリアに愛想を振り撒いている。
じゃれ合う彼らをエントランスホールに置いて、リュシアンはひとり階段を上り、自室に入った。
ファヴィラかトニトルスのどちらかがエミリアとの会話を盗み聞きしていたと見える……応接テーブルにはすでにチェスセットが用意してある。
「お帰りなさいませ」
奥からファヴィラが迎える。赤毛を後ろにきつく束ね、喪服のような黒いドレスに身を包んでいる。
「鎧戸を開けろ」
リュシアンは帽子と手袋を取り、コートを脱ぎながら言った。
「しかし……お顔の色がよろしくありません。これ以上、陽光に当たられるのは……」
「いいから、早く……」
ファヴィラは黙って窓に近寄り、鎧戸を次々と開け放つ。そして哀しみを眉間に漂わせたまま部屋の奥に下がると、
「ただいまお飲み物のご用意を」
そう言い残して薄闇の中に消えた。それとほぼ同時にエミリアとトニトルスが連れ立って入ってくる。
「さっそくやりますか」
エミリアがにこやかに言う。リュシアンは長椅子を手で示し、自分も向かい側の椅子に腰を下ろした。
「手加減はしないぞ」
「望むところです」
白と黒の盤面に懐かしさを覚えながらエミリアは頷く。
記憶の奥底に残る波の音と潮の香り――チェスは十代の頃、母子ともに世話になった宣教師オーガスト・キンバリーに教えてもらった。商船での旅の最中、さまざまな年代の乗組員たちと対局したことを今でも鮮明に覚えている。
彼らはべらぼうに勝負強く、負けてばかりだった。修道者となってからは娯楽と距離を置いていたため、今の自分の力量がどれほどのものなのかはわからない。
対戦相手として不足なしと思ってもらえるといいが……エミリアは勝負を前にして胸が高鳴るのを感じつつ、リュシアンに目礼した。鷹揚に応えた彼は、椅子に座り直し姿勢を正す。
リュシアンは白の駒、エミリアは黒の駒。白からの一手で勝負は始まった。
「チェスは得意ですか?」
駒を進め問うと、リュシアンはふっと笑う。
「それなりに。昔はよく大金を賭けて仲間と勝負したものだ」
「ふふ。腕が鈍っているといいけれど」
「悪いが、勘を取り戻すのは早い方でね。たとえ鈍っていたとしても負ける気はしないな……」
その言葉通り、ゲームはリュシアンのペースで進んでいく。
運ばれてきた葡萄酒に手もつけず、彼らは無言のまま相手の一手に集中している。やがてリュシアン優勢のままゲームも終盤となったところで、エミリアが苦しそうに唸った。
「さすが、お強い」
「君もなかなかやるじゃないか」
エミリアが致命的なミスを犯すのを腹の底で笑いながら見遣り、リュシアンは顔に余裕を滲ませる。
「この言葉を知っているか?」
思い通りのゲーム展開であることに気分をよくしたか、いつになく饒舌だ。
「“寂しさや孤独を感じるとき、チェスをしなさい。チェスは精神を高め、戦いの助言をくれるだろう”……」
唇を指先でこすりながら難しい顔をしているエミリア。回ってきたターンで彼女をさらに追い詰めて、リュシアンはいよいよ勝利を確信した。
ふとボードから顔を上げ、エミリアはリュシアンを見る。勝利を目前にした彼は無邪気に嬉しそうだ。
彼女は口元を綻ばせた。
「勝負事は楽しいですね」
視線をボードに戻しながら言い、駒を動かす。
その一手で雲行きが変わった。
リュシアンの顔つきが途端に険しいものになる。
ひとつ前のターンで彼女が指した手は罠だったのだ――しまったと思ったがもう遅い。前のめりになってボードに目を落とすと、膝に肘をついて爪を噛む。
まだ逆転の余地はある、そう言い聞かせつつ駒を進めるも、すでに勝敗は見えていた。
「汚い手を……」
リュシアンは思わずつぶやく。エミリアは細めた目でチェスボードを眺めつつ言った。
「私もチェスに関する格言をひとつ知っています」
白く細い指先が駒を動かす。
「“心優しい者にチェスはできない”」
エミリアは上目遣いにリュシアンを見た。チェックメイトだ。
油断した――奥歯を噛みしめたリュシアンは片頬を上げて笑う。
「私の勝ち!」
エミリアは満面の笑みで子どものようにはしゃいだ。




