69話
「目に見えぬ存在をなぜそこまで無心に信じられるのか……私には理解できない」
「クインレスタを信奉してらっしゃるのではないのですか?」
エミリアが振り向き、まっすぐに彼を見る。
「信仰とは無縁だ」
「だったらどうしてあのとき神の家へ?司祭に声をかけられたからとはいえ、まったく信仰心のない人間がわざわざ足を運んだりするものでしょうか」
「――それは」
鳥の群れが木立から一斉に飛び立ち、騒がしく鳴き叫んでいる。その声が遠く去った頃、リュシアンはか細い声で言った。
「君には関係のないことだ」
「関係あります。だって……」
「しつこい。この話は終わりだ」
言葉を鋭く遮って、彼は再びやわらかな草の上を歩き出す。エミリアは慌てて彼の背中を追った。
他愛のない会話を交わしながら進んでいくと、やがて湖を擁する大庭園が見えてくる。美しく輝く水面を越えた先……小高い丘の上に建つ巨大な邸宅には昔、ローラ・ウォードという女性が暮らしていたといい、ここ一帯は彼女の遊び場だったようだ。
ローラは、故ルトマイア公エリック・デュランの父テオドール・デュランの愛妾である。彼はこのうら若い乙女が退屈せぬようにと森に運河を張り巡らし豪奢なゴンドラを浮かべ、一年を通じて花を愛でることができる美しい庭園をつくって喜ばせた。父テオドール亡きあと、ルトマイア公となったエリックはこの邸宅からローラを追い出し、狩猟をしに森へ入ったときの休憩地として使った。
彼は滅多に敷地の手入れをしなかったというが、色とりどりの花が咲き誇る庭園、エメラルドグリーンの流れに沿って立つ苔生した彫像……その幻想的な風景は今も健在だ。
石造りの東屋は睡蓮が咲き乱れる湖の中に建っているが、そこまで行ける橋は真ん中から崩れて渡れなくなっていた。多くの貴族たちを乗せ運河を遊覧したであろうゴンドラも、湖のほとりで船尾を碧水の底に沈めている。どうやらルトマイア公エリックには、訪れる季節のうつろいをゆったりと眺め愉しむ趣味はなかったようだ。
残酷な時の流れの中で朽ち果て人々に忘れられた景色を見つめながら、リュシアンがぽつりと口にする。
「以前暮らしていた屋敷にこれとよく似た庭があった」
歩む速度を緩めたエミリアは、悠々と広がる静寂の庭園に視線を投げた。彼は湖岸で足を止めると、感嘆の息を漏らす横顔に振り向き言葉を継ぐ。
「妻のお気に入りの場所でね。よくふたりで散歩したものだ」
「ご結婚されていたのですね」エミリアは胸の奥にちいさな痛みを覚えたが、無視して明るく問うた。「奥様も近いうち、城においでになるのですか?」
「妻はずいぶん前にこの世を去った」
それを聞き声を詰まらせたエミリアを瞳に映して微笑む。
「こうして君と過ごしていると、彼女のことを思い出す」
リュシアンはそう言ったきり黙り込んで物思いに耽るような顔をしていたが、やがて日を遮るように帽子の鍔を引き下げると、湖に背を向け、来た道を戻り始めた。
声を掛けるのを躊躇い、黙って彼の後ろに続く。一定の距離を取って歩きながらエミリアは、すこし前におかしな問いかけをされたことを思い出した。
“ずっと待っていたのに”という言葉を無意識に口にしてしまったあのとき、それを聞いたリュシアンは「私のことを思い出してくれたのか?」とすがるように訊いてきたのだ。
あのやりとりはいったいなんだったのか。今もわからない。エミリアはどことなく落ち着かない気分で、額に薄く浮かんだ汗を拭う。
熱を孕んだ緑の風を浴びながら、彼らはしばらくのあいだ無言で歩いた。
照りつける太陽が容赦なく肌を刺す。白く光る砂の道から目を上げた彼女はリュシアンの厚手のコートの背中を見つめ、改めて思った……夏の足音が聞こえ始めたこの時期になぜ真冬の格好をしているのだろう。
「暑いですね」
「そうか?」
言動といいなんといい、謎の多い男だ。彼が隠している部分を暴きたくなって、エミリアはなおも言う。
「上着を脱いだらいかがでしょう。ご気分が悪くなるといけません」
「大丈夫だ。これでちょうどいい」
涼しい声で答えたリュシアンの横に追いつき、エミリアがその顔をちらと覗き込む。白くなめらかな肌は汗ばむでもなく、さらりとしている。
冷たい湖面のようなアイスブルーの双眸は瑞々しく光り、その眼差しはどこか憂いを帯びている。カールした白金色の髪は艶やかに長く、彼が歩を進めるたびに風を孕んで揺れた。聖画に描かれた神の使いのひとりに似ていると、エミリアは思った。
「なんだ、そんなに見て……私の顔に穴をあけるつもりか?」
眉をひそめリュシアンが問うと、エミリアはわずかに口角を上げる。
「ほんとうは暑いのに、痩せ我慢しているのかと……」
「ちょうどいいと言っているじゃないか」
その次の瞬間、まぶたに何か触れてリュシアンは反射的に両目を閉じ立ち止まる。それに気づいたエミリアが、彼の睫毛についているものを見て口早に言った。
「目を閉じて、じっとしていて……」
拒否する隙を与えず、エミリアはリュシアンの目元に手を伸ばす。やわらかな指先がまぶたを撫で、震える睫毛に触れた。
「綿毛が」
エミリアの声にリュシアンは薄く目を開き、彼女の指の間にあるそれを見る。
「――ありがとう」
礼を言われ、にこやかに頷いたエミリアは綿毛を風に逃がす。一足先に歩き出した彼女は、ふいに振り向いて、いたずらっぽく笑った。
「その格好でちょうどいい理由がよくわかりました。あなたの肌、とても冷たかった」
リュシアンは茫然とした顔で黙っている。
まぶたにはまだエミリアの指先の感触が残っている。そのぬくもりを思い出しながら彼は、動揺している自分に気づいた。そしておおいに戸惑い、顔をうつむかせた。
「リュシアン様?」エミリアがそっと近づき、覗き込んでくる。「目が痛むのですか?」
彼は答えずただ首を横に振ると、コートの内側から懐中時計を取り出した。
壊れた時計の針は正確な時刻を示していない。しかし彼はそれを神妙な顔で見つめてから元の場所にしまう。
「そろそろ城に戻らねば」
「では私も……」
ふたりは互いの顔を見た。そうしてすこしのあいだ黙って見つめ合っていたが、やがてどちらからともなく黙礼する。
「お気をつけて」
去り際、小さな背中にそう言うと、歩調を緩めたエミリアは肩越しに振り向いて軽く会釈を返してきた。彼女の唇はゆるやかに弧を描いていたが、その微笑みはひどく悲しそうに見えた。帰りたくないのだろうとリュシアンは思った。
見送る彼の脳裏に、小川のせせらぎに足を浸し所在無げにしていたエミリアの横顔が甦る。それと同時、用事を終えてもなかなか立ち去ろうとしなかった彼女の孤独と悲しみが、彼の胸に怒涛の如く流れ込んできた。
――そうか。あのときすでに彼女は、自分の居場所を失っていたのだ。
その気づきが胸を貫いた瞬間……考えるより早く、彼は唇を開いていた。
「シスター・エミリア!チェスはできるか?」
めずらしく大きな声を出し呼び止める。驚いたエミリアは体ごと振り返り、困惑まじりの表情でリュシアンを見つめた。
目を見開いたまま固まっているエミリアに、彼は急かすような口調で答えを迫る。
「できるのかできないのか、どっちだ」
「できます……すこし齧った程度ですが……」
「では相手になってくれ。葡萄酒をごちそうしよう」
仏頂面で言い放つ。そして、相手の返事を待たずジャーメイン城の方につま先を向け歩き出した。




