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FATUM  作者: 紙仲てとら
第二章

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68話

 ウングラは一拍置いてから黙って頷き、再び蝙蝠に変化すると羽音を残してどこかに飛び去った。

 リュシアンは人知れず深い溜息をこぼした。暖炉にイグニスはおらず、めずらしくトニトルスの姿も見えない。鎧戸の隙間から昼の光がこぼれ、大理石の床に細く長いラインを描いている。

 彼は長椅子から立ち上がり、ライティングビューローに歩み寄る。

 ローマン・パトラからのプレゼントには見向きもしない。夜会の招待状と議会からの書簡を読みもせず破り捨てると、エミリアからの手紙を取った。真鍮のペーパーナイフで丁寧に封蝋を切り、便箋を広げる。

 開いた瞬間、スイートバイオレットの甘い香りが鼻先をやさしく掠めていった。彼は表情を綻ばせたまま文字を目でなぞる。そこには……次の日曜、新緑うつくしい星見の森で散歩でもどうかと書かれている。

 彼は思い出す――あの森で見た、雪解け水の凍てつく流れに足を浸しているエミリアの可憐な横顔を。水と戯れるつま先からこぼれる、宝石のような光の粒を。それは神聖さすら感じる情景だった。

 リュシアンは静かに手紙を畳み、返事を書こうかどうしようかと逡巡する。エミリアが提示したこの日は、先日途中で中止された聖霊大祭のやり直しが行われるはずだ。司祭の補佐役である彼女が暇なはずはないが……

 そこまで考えて、リュシアンは目を上げ虚を睨んだ。

(もしや……役職を外されたのか?)

 レイモンド公爵の政策により、治安を乱す異物とみなされた者は淘汰されつつある……クインレスタ教を根絶やしにするために遣わされた邪教の者として警戒されている彼女は、だいぶまずい状況に追い込まれているのかもしれない。

 教会側はエミリアよりもレイモンド公と民衆のご機嫌取りを優先したということか。リュシアンは鼻で笑う。そしてライティングビューローの引き出しから便箋を取ると椅子に座り、エミリア宛ての手紙を綴り始めた。



 日差しの強い日だった。

 星見の森は苔生し青々と輝いている。町の喧噪から離れたこの場所を満たすのは鳥の声と風が揺らす木の葉の音だけだ。時はゆるやかに流れ、しっとりと濡れた清潔な空気が傷だらけになった心を包み癒してくれる。

 せせらぎのほとりで彼らは落ち合った。エミリアがひとり、足をひたしていた場所だ。

 今日の彼女はいつもの黒いベールを被っていない。薄手の修道服に身を包み、初夏らしく軽やかな装いだ。後頭部でひとつに束ねられた亜麻色の髪は絹糸のようにしなやかで、歩くたびにゆるやかに波打ち輝いている。この美しさと髪色の珍しさは有名で、彼女の髪を使って鬘を作りたいという貴族もいるくらいだ。

 一方リュシアンは涼しげな格好をしているエミリアとは真逆で、詰襟シャツで首元を覆い隠しその上にインバネスコートまで着ている。黒い鍔広帽を目深に被り、ステッキを握る手には革の手袋をはめていた。真冬の装いである。

 しかしその白い顔には汗の粒ひとつ浮いていない。まったく暑がる様子のない彼をすこし不思議に思いながらも、エミリアは午後の緩やかな散歩を愉しんだ。

 リュシアンが小川に掛かる橋を渡るのを嫌がるので、橋の反対方向にある東屋を目指すことにした。本当は川を渡った先にある噴水広場に立ち並ぶ神々の彫刻を見せたかったのだが、しかたがない。

「修道女とは普段からこんなに自由に外を出歩けるものなのか?」

 一定の速度でのんびり歩きながらリュシアンがエミリアに言う。彼女は遠くに視線を投げたまま答えた。

「厳しい戒律があるので、個人的な外出はほとんど許されません。いつもは奉仕と祈りに一日の大半を費やしています。今日は例外的に、自由時間を多くいただけただけです」

「聖霊大祭は中止に?」

 彼はさりげなく問う。

「いいえ。予定通りに執り行われます。私は、出席を許されなかったので」

 エミリアは微かに笑った。リュシアンは彼女の歩調に合わせ歩みを進めながら正面を見据える。

「神の威光を笠に着て修道者に無償奉仕の尊さを説き……自分たちの手足として酷使しておきながら、都合が悪くなると排除しようとする。汚い連中だ。聖職者が聞いてあきれる」

「彼らは善良な人々です。ここのところ、悪いことが立て続けに起こりましたから……みな、余裕をなくしているのです」

「そうやって悠長に構えているからいいように使われるんだぞ。不当に扱ってくるやつらをいつまで許すつもりなんだ?シスター・エミリア……」

「仮に悪意を向けられていたとしても、私は罪を問いただす立場にありません」

「神に審判を委ねるというのか」彼は低めた声で言い、嘲笑う。「公正な裁きなど期待するだけ無駄だろう。神は姑息な連中のすることを許容し、君が窮地に追い込まれるのをただ見ているだけだ」

「それが神のご意思であるならば受け入れるのみ……」

「これまでに教会から授かった地位と名誉、築き上げてきた信頼……そのすべてを奪われ修道院から追放されることになっても同じことが言えるのか?」

 足を止め、リュシアンは目の前の小さな背中を睨む。同じく歩みを止めたエミリアは、振り向かぬまま言った。

「私が仕えるのは教会ではなく、天地の母クインレスタです。たとえ修道院を追い出されたとしても、信仰は私の中に生き続けるでしょう」

 一言一言を噛みしめるように彼女は続ける。

「すべてを失うのは恐ろしいことです。しかし……その試練が神により課せられたならば耐えてみせましょう。手指からこぼれおちたものへの執着を捨て、邪念に囚われず一心に信じ続ければ、いつくしみ深き神は必ずや光の道へと導いてくださいます」

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