67話
「お兄さま」
耳に届く前に溶け消えてしまいそうなか細い声が、いつものように呼んでくる。リュシアンは本から顔を上げ、凍てつくブルーの眼差しを声の方に向けた。
目が合うと、ファヴィラは仮面のように表情を固めたまま、届いたばかりの手紙数通とリボンの掛かった箱をライティングビューローの上に置き、一礼する。
「エミリア様からのお便りが届いております。こちらの贈り物とカードはアバド公ローマン・パトラ様、青い封蝋のものはブロディア公マルクス・ボーフォート様からです。夜会のお誘いでございましょうが、ご一読くださいませ」
リュシアンは微かに片眉を上げた。黙ったまま、ファヴィラの心中を見透かそうとするかのように目で動きを追っていたが、やがて重苦しい溜息をひとつついた。
「どうかなさいましたか」
ふいに振り向いた彼女が問うてくる。開きかけた唇を閉じ沈黙を選んだ彼は、窓の方に顔を背け長椅子の背に凭れた。そしてなおも黙ったまま、かぶりを振った。
そのしぐさが「なんでもない」という意味なのは理解していたが、ファヴィラは立ち止まって主の言葉をじっと待っていた。そうしていつまでも去ろうとしないので、彼は根負けしたように言った。
「自室で休め。なにかあれば呼ぶ」
「お顔の色が優れません。野兎の生き血をご用意いたしましょうか」
「案ずるな。すこし日を浴びすぎただけだ」
彼が手で追い払うようなしぐさをすると、彼女は一礼し踵を返す。
そのときだ。蝙蝠がどこからともなく現れふたりは同時に羽音の方を見遣る。蝙蝠はファヴィラの体の周りをくるりと軽やかに旋回すると、大理石の床に四つん這いの格好で降り立った。
おもむろに爪で床を掻いた小さな蝙蝠は体を丸めて黒い塊となり、徐々に膨らんで大きくなっていく。薄い飛膜の翼は漆黒のマントとなり、その下に人の形を取ったウングラが現れた。
ファヴィラは静かに妹に近づき、蝙蝠の名残を残す顔を見つめ上げると、額に乱れ落ちる髪を整えてやる。ウングラは自分の醜い容貌を恥じるようにそっとフードを被ってうつむき、リュシアンの方に体の正面を向けて言った。
「メトゥスがいない」
彼女はわずかに怒りを孕んだ口調で末の妹の名を口にし、さらに背中を丸める。リュシアンの代わりに、ファヴィラが彼女に答えた。
「あの子ならば監視塔の地下にいるわ」
「どうしてそんなところに?きっとおなかをすかせている。姉上がきちんとめんどうを見ていてくれないとたいへんだ」
ウングラは肩越しにファヴィラを見て責めるように口にする。鋭い視線を受けたファヴィラは眉ひとつ動かさず、涼やかな声で言った。
「閉じ込めて罰を与えているの。しばらく放っておきなさい」
「罰だと?」
聞き咎めたリュシアンが眉をひそめて尋ねる。
「はい。言いつけを守らずケンプベルの人間を襲い、取り返しのつかない事態を引き起こしましたので」
「私には、おしおきしないのか?姉上」
「今あなたを封じるわけにいかないわ。お兄さまをお守りするという重大な責務があるからね。あの子は混乱を招くだけで役に立たないから、閉じ込めておいた方がいいのよ」
これに、リュシアンは憤慨した。彼は淡々とした口調で妹を諭している赤毛の同胞を睨みつけると、尖った声で言った。
「罰を与えよと命じた覚えはない。今すぐに解放してやれ」
「ずっと逃げ回られて、先頃ようやく封じることができたのです。もう少し反省させます」
「勝手なことをするな」
「甘やかすからつけあがるのです。お兄さまが罰を科さぬおつもりならば、姉の私がしっかりと懲らしめねばなりません」
いつになく強い物言いだ。リュシアンの言葉を待たず彼女は目礼し、暗闇の中へと消えていった。
残されたふたりは重苦しい沈黙に呑まれていたが、やがてウングラが口を開く。
「私がメトゥスをしばってる結界をといて、兄上のところにつれてきてあげる」
「いや。いい」
リュシアンは肘掛けに肘をつき、こめかみを指で押さえた。
「無理に解こうとするのは危険だ。ファヴィラの気の済むようにさせておけ……」




