60話
ジャーメイン城の地下室でリュシアンは、棚に並べた大量の日記を眺めている。これは彼が生きた証であり、そして同時にグレンスピア大陸900年分の歴史を綴った貴重な史料でもある。
リュシアンはこれらを自室の書棚に収めていたが、そこに置いていてはいつエミリアの目に触れるかわからない。まさか彼女が自ら棚を漁り盗み見をするはずはないとは思えど、一刻も早くこちら側に堕ちてくることを切望しているトニトルスの奸計でそそのかされてしまう可能性は十分にある。それを危惧した彼は、誰もいないときを見計らい、すべての日記をここに持ってきて隠したのだった。
こんなにも警戒しているのは、怪物であることを見破られるのだけは避けたいという強い気持ちがあるからだ。マリアンヌの生まれ変わりを見つけ関係を深めていくたび、折を見てこの身に起こったすべてを伝えてきたが……リュシアンは今世、エミリアに正体を明かさないつもりでいる。
ふたりの関係は聖と邪。俗世に生き、互いの欲望のまま恋に落ちて激しく愛し合ったこれまでとはまるで状況が違う。エミリアは神を敬愛する清らかな乙女であり、穢すことなど決して許されぬ存在だ。
共に過ごせる時間はそう長くないであろうとリュシアンは思っていた。5年10年と関係を続けていくうちに、彼女は違和感を覚えるに違いない。なにしろこの体は死亡した当時――まだ27歳だった――の若々しさを900年以上保ち続け、皺のひとつすら増えていないのだ。時の流れに逆らえないエミリアは老いていき、やがて“同年代の若い男女”から“中年女性と若い男”という組み合わせになっていることに気づくだろう。
いつまでも変わらぬ容姿を見て訝しがられるようなことがあればすぐに彼女の前から姿を消そうと彼は決めていた。振り返ることなどせずに、潔く……
日記の背表紙をひと撫でして振り返ると、彼は酒を収めた棚からボトルを一本引き出した。百年ほど前の葡萄酒である。もともとここは貯蔵庫として使われていたらしく、以前の持ち主が残した年代物の酒が今も大量に残っていた。
彼が手にしたこの葡萄酒はレイモンド公パトリック・チェスターへの贈答品である。これに加え、金品や宝石などを添えて届けるつもりだ。祈祓師を擁するセルリオス教皇庁の人間がケンプベルに入り込み好き勝手しているのは正直面白くなかったが、民衆がこちらに対して抱いていた疑念を晴らしてくれたことには敬意を示さねばならない。
ふいに顔を上げたリュシアンは、氷のような目で棚をなぞる。葡萄酒、林檎酒、ブランデー。これら多くの酒瓶に紛れて、人間や動物の血液を詰めたボトルが並んでいる。
彼は暗澹たる表情でボトルネックに下がっているタグに触れる。そこには日付が書かれている。2月5日、フォグハイム州の貧困地域ノディカを襲ったときに持ち帰ってきた人間の血だ。
抵抗してくる力、恐怖に引き攣った顔、声にならない悲鳴、生温い血の味。そういったことを思い出しながらこうしてボトルを眺めているとき、彼は自分が化け物であることを実感する。
マリアンヌの魂を宿して生まれた3人の女たち……ジャスミン・リーズ、オルガ・ラギ、ジュディス・マデランは、愛する者の隠された正体を知って絶望し、憐みや恐怖で多くの涙を流した。
神のしもべとして邪悪なものと闘うエミリアは、事実を知ったところでさめざめと泣いたりはしないだろう。愛の炎は怒りとともに一瞬で消え去り、神の敵に心を許した己を恥じるに違いない。彼女は二度とこちらを振り返ることなく、聖域を守る神兵として清く正しく生きていくはずだ。
とりとめもなく考えているうちに、凍えるほどに冷たい哀しみと孤独が波のように押し寄せてくる。神を愛し神に愛された女、エミリア・コレット……――私の愛しいマリアンヌ。
ゆっくりと後ずさり棚に背を向けたリュシアンは、顔に昏い影を落としたまま扉に手をかけた。すると壁の燭台に、ぽっと火が灯る。その小さな光……笑うように揺れたかと思うと、どこからともなく響いてきた声が石壁にこだました。
「深く憂えておりますな。しかしながらなんとも優しいお顔つき」
イグニスだ。彼は火の精霊で、着火できるものがあるところどこにでも姿を現す。
「なんの用だ」
素っ気なく言いながら、リュシアンは扉の取っ手から指を離し室内に振り返った。




