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FATUM  作者: 紙仲てとら
第二章

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55/89

54話

 夜が明けていく。

 聖ラディウス教会の司祭ハリー・トマスは、汚れた祭服のまま、階段の踊り場に穿たれた小さな窓から朝焼けを睨むように見つめている。

「探しましたよ。神父様」

 背後の声に振り向くと、ヴェストール子爵ブレナン・ジョンストンが立っていた。煤けたように黒ずんだ顔には疲労の色が浮かび、覇気がない。

 ジョンストンはゆっくりと視線を動かし、朝の光に照らされた世界を眺めつつ目をすがめた。

「朝が来た……」

「ええ……ようやく」

 長い夜だった。

 昨晩のことは、これから先どれほど長い時間が経過しても鮮明に覚えていることだろう。

 トマス神父は、救貧院で殺人事件を起こした少女クレア・オルビーを浄化するための“邪祓いの儀式”を祈祓師ランドルフ・グラーツ博士に正式に依頼した。当初は明日の日中、ヴァンパイアが本来の力を発揮できない時間帯に決行される予定であったが――昨日の夜半、神父が地下牢の祭壇で香を焚き祈祷文を読み上げていたところ突然暴れ出し、急遽前倒しで執り行われることとなったのである。

 儀式は困難を極めた。長らく血を断っていたにもかかわらずクレアはまるで弱っていなかったのだ。

 神父とジョンストンは、強靭な顎で革製の口枷を噛みちぎり暴れる少女を椅子に縛り上げると、牙を剥き出し獣のように吠え立ててくる口に頑丈な鉄の鎖を噛ませた。グラーツ博士は祈祷の文言で円陣を描いて彼らふたりごと少女を囲い、塩、聖水を周囲に振り撒く。そして銀の短剣とメダリオンを手に、魔を退かせんとした。

 聖なるものが近づけられるとクレアは目隠しの下で黒い血の涙を流し、鎖を噛み砕こうとするように頭を振りながらもがく。神父はチェーンを引きちぎり、クインレスタのメダリオンをクレアの額に押し当てた。

 博士と神父により祈祷文が途切れることなく読み上げられ……少女は苦しみに身を捩り唸り声を上げながら、拘束から逃れようと激しく暴れた。異臭はますます濃くなり、香の匂いをかき消す。聖水は石の床に落ちた瞬間に蒸発し、塩は黒く染まった。誰のものとも知れない甲高い悲鳴と哄笑が辺りを包む。その声に鼓膜をやられたか、博士の右耳から血がしたたり落ち、肩を濡らしている。

 儀式は少女が力尽きるまで続けねばならなかった。クレアとの根比べだと、博士は言った。彼だけが愉快そうで、神父とジョンストンはとてつもない恐怖と不安感に襲われていた。少女の抵抗は凄まじいもので、拘束しているというのに椅子が跳ね上がるほどであり、人間が神の力をすこし借りたくらいでこの荒ぶる邪悪な魂を鎮められるとはとても思えなかったのだ。

 しかしやるしかなかった。ジョンストンは暴れ馬さながら獰猛に抗ってくる小さな体を死に物狂いで押さえつけ、神父は悶絶する彼女の額にメダリオンを当てながら、博士の声に合わせ祈祷文を叫び続けた。

 時間ばかりが過ぎていった。抗うさなかついに鎖を噛み砕いたことで彼女の歯はぼろぼろになっていたが、抵抗する力が弱まる兆しはまるでなかった。3人の男たちに限界が近づき、いつも余裕綽々な博士の顔にも疲労と苦痛の色が見え始めた。

 いよいよ駄目かという思いが彼らの脳裏をよぎった瞬間――突如としてクレアの体が痙攣し大きく跳ねた。口から黒い血の泡を吹き飛ばしながら咆哮を上げたかと思うと、数度の深い呼吸を最後に、彼女はぐったりとして動かなくなった。

 祈祷文を読み上げる声が止み、静寂が訪れた。ついに勝ったのだ。青白い顔に脂汗を滲ませた神父は、震える息を吐き深々と項垂れた。

 何時間も祈祷文を叫び続けた喉は裂けているのではと思うほど痛み、全身に疲労感が押し寄せてきた。彼は肩の力を抜き、少女の額に押しつけていたメダリオンを外す。肉の焦げる臭いを含んだ細い煙がじわりと空気に溶け消えていった。見ればそこには、クインレスタの肖像の痕が焼印を押されたかのようにくっきりと残っている。

 ジョンストンは震える手を伸ばし、目隠しを外す。そして、白目を剥いている彼女の目元に触れてまぶたを下ろし、黒い涙と涎で汚れた顔を自らのハンカチーフで清めてやった。新たに口枷を噛ませたのち麻袋で頭部全体を覆い隠し、脱力している体に何重にも鎖を巻きつける。ここまでして彼らはようやく生きた心地を取り戻したのであった。

「あんなに幼い少女が……かわいそうに」

 押さえつけた肩の頼りない薄さを手に思い出し、ジョンストンは身震いする。トマス神父は鐘楼に続く階段を上へ上へとのぼっていきながら言った。

「同情するのはおよしなさい。クレア・オルビーは魔に堕ちた。神罰を受けるのは当然のこと」

「なんですって?」

 絶望に顔を染めたまま、神父の背を見上げる。振り向きもせず黙ったまま階上に向かっていく彼に続き、ジョンストンも重い足を引きずりながら進んだ。

「神父様は、少女が自らの意思で神の怒りを買うようなことをしたとお考えなのですね」

 冷たい螺旋階段に、感情を伴わないジョンストンの声が響く。神父は一定の速度で歩みつつ、短い言葉で答えた。

「罪には罰を与えなければ」

「彼女の大罪は極刑ではなく、永続的な身体的苦痛をもって償われるべきだと?……私はそうは思いません。この国に生きる人間は、この国の法により正しく裁かれるべきです」

「法律は人のためにつくられたもの」前を見据えたまま鋭く言い放ち、一拍置いて言葉を継ぐ。「クレア・オルビーは人間ではない」

 ジョンストンは蒼白の顔を横に振りながら言った。

「博士はまだ儀式の結果を明言していません。目覚めたらかつての彼女に戻っているかもしれないではありませんか」

「最後に口枷を嵌めたとき……欠けた歯が抜け落ちて、すぐに生えてきたのを見ました。あれは怪物です。人には戻れなかった」

 神父は階段を上がる速度を緩め、かぼそい声で続ける。

「儀式は失敗だ。だが博士は私に、とどめを刺すことを禁じた。どうやら本気であれを生かしておくつもりらしい……」

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