53話
やがて飲み物を載せたトレーを手にファヴィラが戻ってきた。
長椅子の背凭れに身を預けたリュシアンは、無意識に左胸をさする。エミリアがいるせいか、いつもよりも心臓の鼓動が早く体に負荷がかかっているのを感じる。
加えて、魔力も活力も底をつきそうになっていた。ファヴィラに自らの血を分け与えたためだ。体にこれ以上のダメージが入れば、意識を保つのが難しくなるかもしれない。
リュシアンは密かに危機感を覚えながら、来客用の椅子に行儀よく座っているエミリアを見遣る。彼女はリラックスした表情で、ファヴィラが注ぐハーブティの香りを愉しんでいる。
美しい女たちを目に映しぼんやりとしていると、白磁のティーポットをテーブルに置いたファヴィラがリュシアンの方に振り向いた。
彼が限界に近い状態であることを、ファヴィラは誰よりもわかっている。エミリアの元を離れ兄の方に静々と歩むと、真鍮製のゴブレットを差し出し黙礼する。
受け取ったリュシアンは葡萄酒よりも濃い色の液体が注がれているのを見て、ごくりと喉を鳴らした。貯蓄していた動物の血液だ。味も質も人間のものに劣るが魔力回復の助けとなるだろう。
食欲をそそる香りが鼻先に漂い、彼は思わずそのにおいを胸いっぱいに吸い込む。牙が疼くほどの飢餓感を感じたがしかし、エミリアの前ではとても飲む気にはなれない。彼は口をつけることなく、手の中のそれをテーブルの隅に押し遣った。
エミリアは先ほどまでの饒舌ぶりが嘘のように、黙っている。
静寂の中、リュシアンは指先でまぶたを揉んだ。会話が途切れたことで、血を大量に失ったことによる怠さと抗いがたい眠気が襲ってくる。聞きたいこと話したいことは山ほどあったがその余裕もなく、座っているだけで精一杯だ。
リュシアンはとろけそうな目でゆっくりとまばたきながら、エミリアがティーカップを傾けるのを見つめた。
目の前にいるのは神に仕える修道女、自分とは真逆の世界に生きる者だ。彼女の纏う神々しく清らかな力は邪気を浄化し、遅効性の毒のようにゆっくりと体内を蝕んでいく。
不思議と苦痛は感じなかった。雲の上を歩いているような浮遊感を覚えながらリュシアンは唇をほころばせた。
彼の異変に気づいたエミリアが、ふいに目を上げる。
「お休みになりますか?」
彼はすでに半分ほど意識を飛ばしているようだったが――声に反応し、傾きかけていた頭を戻して座り直した。
「横になられた方が……」
そう促すも、リュシアンは静かにかぶりを振る。手のひらで顔を拭い、くぐもった声で言った。
「大丈夫だ……まだ眠くない」
淡く光る睫毛に縁取られたアイスブルーの双眸が、熱を帯びてエミリアを見つめる。ベッド脇で揺れる燭台の火は陶器のようになめらかな肌を照らし、彼の顔に官能的な陰影を描いた。この世で最も美しいものを目の当たりにしている気がして、エミリアはうっとりと吐息をもらす。
もうすこし眺めていたかったが、彼女はティーカップをソーサーに戻しハンドバッグを手にした。
「そろそろおいとまいたします。お疲れのところ申し訳ありませんでした……ゆっくりお休みください」
「待て……」
指一本動かせぬまま、消え入りそうな声で言った。エミリアが不思議そうな顔をして、こちらを見ているのがわかる。
リュシアンの意識は混濁していた。何も言わず茫然としている彼を見て、すでに夢と現実の間を行き来していることに気付いたエミリアは早く去ろうと腰を上げかけた。そのとき、
「行くな、マリアンヌ」
リュシアンはうつろな声で最愛の人の名を呼んだ。行き場のない気持ちを秘めたままうっすらと目を開き睫毛の隙間から見つめると、彼女は身じろぎもせず驚いたような表情で見つめ返してくる。
次の言葉を待っているのがわかったがしかし、一言を発する力すら今のリュシアンには残っていない。
穏やかな眠りがその身をやさしく抱きしめる。上体が長椅子の座面にゆっくりと倒れ、脱力した彼は静かに目を閉じた。
眼窩に広がる闇の中、エミリアの姿が陽炎のように浮かぶ。そのときようやくリュシアンは、彼女に対しマリアンヌと呼び掛けてしまったことに気づいた。なんとも形容し難い思いが込み上げてくるのを感じながら彼は、大きく息を吸い込む。それを合図として徐々に心臓の鼓動が弱まり、呼吸が細くなっていく。
その様子を黙って見守っていたエミリアは、頭を擦りつけ甘えてくるトニトルスを撫でながら立ち上がる。静かに長椅子に近づきリュシアンの傍に膝をついた。
覗き込んだ彼はすでに深い眠りの中にいた。その蒼白の顔は痛々しいほどにやつれ、美しく生え揃った睫毛が頬に長い影を落としている。
「リュシアン」
紅茶の温もりが残る指を伸ばし、頬にかかるプラチナブロンドの巻き毛に触れた。
「恐れないで。もういちど私を求めて……」
エミリアはその寝顔に囁く。完全なる無意識のうちに出た言葉であった。




