52話
胸の奥に熱いものを感じながら押し黙っている彼を穏やかな表情で見つめながらエミリアは、歌うように声を紡いだ。
「美しく上品なお召物に、清潔なハンカチーフ……アルベスク様はいつも身ぎれいにしていらっしゃるのですね。高潔さや品位といったものを嫌悪し、怠惰で自堕落な生活をすることが貴族諸侯の間で流行するなか、大変ご立派なことでございます」
リュシアンは長椅子のアームに肘をつき、ずっと引き結んでいた唇をついに開いた。
「私が貴族たちの間でなんと呼ばれているか教えてやろう。“ならず者”だよ。社会の規範に従えと、お叱りを受けてばかりさ。売春宿やサロンに入り浸り汚れたハンカチーフで鼻をかんでいても、彼らは上流階級に生まれた者としての最低限の役割は果たしている。礼儀と世間の習わしを重んじているぶん彼らの方が私よりよほど立派だと思うがね」
自嘲気味にそう言う。
エミリアは指先で口元を隠し淑やかに笑って、
「私には、その方たちがあなた様よりも立派であるとも、礼儀を重んじているとも思えませんわ。だって、他人を軽々しくならず者と呼ぶような人間こそ品がなく無礼ではありませんか」
リュシアンは目を瞠り頬杖を外した。きっぱりと言い切る姿があまりに鮮烈で、美しかったのだ。
沈黙が落ちた。蝋燭のほのかな明かりを受けて、エミリアの菫色の瞳が水面のように揺らめき光っている。自分の姿を映すその瞳から、視線を外すことができない。リュシアンは握りしめた手のひらに汗が浮いてくるのを感じた。
彼がこうしてマリアンヌの生まれ変わりと巡り会うのは四度目だ。彼女の魂は、慎ましく高潔な伯爵令嬢、素朴で一途な遊牧民の娘、そして性に奔放な王族の子女と、およそ百年単位で転生を繰り返した。
これまでリュシアンはファヴィラの占術で魂の転生先と時代を予知し、マリアンヌを見つけ出してきた。しかしこんなにも自分を圧倒する存在として目の前に現れたことはない。
「君といるとどうにも調子が狂う」
リュシアンが思わず口にすると、エミリアはすこし驚いたような顔になる。
「油断ならないな。シスター・エミリア……」
「警戒してらっしゃるの?」
問われたリュシアンは乾いた声で笑った。静かな水面を思わせる眼差しで彼を見つめたエミリアはすこしばかり目を細め、
「私のような小市民を相手に、なにをそのように身構えることがありましょう。あなた様は貴顕紳士らしく堂々としていてくださればよいのです」
その言葉に、リュシアンは顔を曇らせる。
エミリアにときおり感じる苛立ちはこれだ。ことあるごとに上位の存在として扱ってくる、このよそよそしさが堪らなく嫌なのだ。
かつては夫と妻という対等な関係であったにもかかわらず、転生先で再会するたびに身分の差や立場の違いに邪魔され続けてきた。しかも今世はそれだけではない。神のしもべと魔物という最悪の関係性まで付加されている。
物思いにふけっていたリュシアンは暗澹たる思いで目を上げた。
「君にいくつか頼みがある」
「なんでしょう?アルベスク様」
「まず、その呼び方をやめてほしい」
エミリアは目を丸くする。
「それは、つまり……ファーストネームで呼んで構わないということでしょうか」
眉間に皺を刻んで溜息をつき、彼は浅く頷いた。
「敬語も使わないでくれ。私は堅苦しい態度を取られるのが嫌いだ」
「本当によろしいのですか?」
エミリアはいちど言葉を切ると、淡く頬を染め囁くように言う。
「リュシアン様と呼んでも……」
このときリュシアンは、突如として後悔の念に襲われた。
名を呼ぶ甘い声、はにかむそのしぐさ……なんて可憐なんだエミリア・コレット!顔にも態度にも一切出さず、彼は心の中で悶絶する。
これ以上彼女との距離が近づいたら胸に秘めたる愛が隠し切れなくなってしまうかもしれない。危機感を覚えた彼はすぐさま首を横に振り、透き通るように白い顔をうつむける。
「馬鹿なことを言った。さっきの話は忘れてくれ」
エミリアは唇に指先を当てて、ふふとやさしく笑った。
「堅苦しいのを嫌うのは、気楽な関係を築きたいからでは?友人のような……」
「断じて違う。勘違いするな」
強めの口調で否定した彼は続けてなにか言おうとしたが、墓穴を掘るだけのような気がして結局なにも言葉にできず悔しそうに唇を噛む。一方エミリアは彼の反応など意に介していない様子。軽い調子で言った。
「私も堅苦しいのは嫌いです」
「忘れろと言ったはずだ」
肩を揺らし、エミリアは愉快そうに笑っている。
リュシアンは眉をひそめたまま早口でまくしたてた。
「さっきのはつまり……堅苦しい態度を取られると窮屈であるから畏まらずともよいという意味だ。決して友人になりたいと望んでいるわけでは……」
「リュシアン様」微笑みを湛えたエミリアは彼をまっすぐに見つめ、晴れやかな口調で続ける。「これからはそう呼びます」
その眼差しに心奪われた彼は一瞬言葉を失ったのち、消え入りそうな声で答える。
「気に入らん」
「まあ……気むずかしい御方ね」
そう言ってくすくす愛らしく笑うので、リュシアンは内心、すっかり参ってしまった。
「じゃあ、なんとお呼びすればいいの?」
蜜のような声で問う。顔を逸らした彼はしばし黙り込み、やがて諦めたように首を横に振ると、
「――もう、なんだっていい。君の好きなように呼んでくれ」
舌打ちでもしそうな顔でそう言った。
エミリアは満足そうにひとつ頷く。その口元には終始笑みが滲んでいる。
ふたりのやりとりを、トニトルスはエミリアの傍で寝そべったまま聞いている。
黒狼の表情に変化はないが、腹の底で彼は笑っている。自分の主がすっかりエミリアのペースに乗せられているのが愉快でならないのだ。




