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FATUM  作者: 紙仲てとら
第二章

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51話

 苦虫を嚙み潰したような顔で狼を見送ったリュシアンは、ファヴィラに視線を転じた。エミリアの気配を窺っているのか、彼女は濁った目を宙に彷徨わせ身じろぎもしない。

 彼は小さく息をつき、じっと固まっている妹の赤髪を指でやさしく梳く。

「ファヴィラ」

 呼び掛けに反応したのを見ておもむろにシャツの袖を捲ると、彼は自らの腕に爪を立てて皮膚を裂いた。黒い血が流れ、肌を伝い落ちる。

「そんな姿では客人が驚く」

 馨しい血の香りに恍惚となったファヴィラは鼻をひくつかせたが、次の瞬間、物欲しそうに開いた唇を結んで後ずさった。

「いけません……お兄さま」

 めずらしく取り乱した様子で逃げ惑うファヴィラを部屋の隅に追い詰めたリュシアンは、激しくかぶりを振る彼女の薄い肩を掴んで壁に押さえつけ、冷たい血を流す腕を色のない唇に寄せる。

「飲め。兄ではなく主としての命令だ。断るという選択肢はない」

「嫌です、できません……そんなことをしたらお兄さまのお体が……」

「おまえが使いものにならなくなったら私が困る」

 その言葉を聞いたファヴィラは、体から力を抜き抵抗をやめた。

「飲みなさい」

 リュシアンが冷ややかな声で命じる。

 彼女は息を震わせながら睫毛を伏せ、白濁した目を閉じる。そしてリュシアンの腕に手を添えると、食いしばっていた顎の力を抜いた。伸ばした舌で愛撫するように傷口をなぞり、甘い吐息に湿った唇を押し当て、吸いつく。

 血と共に魔力が吸われていく感覚を味わいながらリュシアンは、腕に流れた血を親指で掬う。そして、濡れたその指で妹の額をひと撫ですると、口の中で呪を唱えた。血の痕が肌に染み込み消えていくのを確認し、彼はそっと笑う。

 それからほどなくして、扉が再び開いた。暗い室内に廊下からの光が差し込む。

 その淡い光の道を辿るように、エミリアがトニトルスに連れられ入ってきた。その次の瞬間、壁の燭台が一斉に灯る。

「あれほど忠告したというのに……危険を冒してまで来るとはなんと愚かな」

 リュシアンの声が耳に届き、エミリアは立ち止まった。

 投げかけられる言葉は相変わらず刺々しい。だが、心なしか穏やかな声音だ。

「アルベスク様?どちらにいらっしゃるの?」

 エミリアは不安げに呼び掛け、ほの暗い部屋の奥へと足を進めつつ辺りを見回す。

「ここだ」

 すぐ後ろから響いてきた声に、エミリアは小さく悲鳴を上げた。弾かれたように振り向けば、不敵な笑みを浮かべたリュシアンが立っている。

「驚かさないでくださいませ」

「そんなつもりはないよ」

 先ほどまでそわそわしながら部屋を歩き回っていた男とは思えないほど落ち着いた態度だ……エミリアにぴったりと寄り添ったトニトルスは笑いを堪えるのに必死になっている。

 鼻先でスカートをつついてくる狼の頭をひと撫でしたエミリアは、持っていた黒いハンドバッグの中からレースのハンカチーフを差し出す。結局足を拭くのには使わなかったが、感謝の気持ちを込めて丹念に洗った。

「お心遣いありがとうございました」

「返さずともよいと伝えたはずだ。いちど足を拭いたものを使うなど紳士のすることでは――」

 そこまで口にしてからふいに言葉を切り、彼は盛大な溜息をつく。引っ込めようとしないエミリアを上目遣いに見て肩を竦め、その白く美しい手からハンカチーフを抜き取った。

「もう使わないだろうが、わざわざ持ってきてくれたのだから受け取っておこう」

 アイスブルーの目が細められ、唇がやわらかく弧を描く。しぶしぶといった物言いだが、気分を害したわけでもなさそうだとエミリアは思った。

「ん……?この香り……」

 ハンカチーフからほのかに漂うラベンダーに気づいた彼がつぶやく。

「ハーブ入りの石鹸で洗濯したので、その匂いかと……」

「そうか」

 リュシアンは手の中のそれに鼻先を寄せ、表情をやわらげる。

 冷徹な男が見せた感情の片鱗に安堵感を覚えた彼女は愛らしいえくぼを両頬に刻んだ。そして、名残惜しさを感じつつ、一歩後ろに足を引き優雅に一礼する。

「本当にありがとうございました。では、私はこれで」

「エミリア様。ようこそおいでくださいました」

 透明感のある声が別れの言葉を遮った。驚いたエミリアはそちらに顔を向ける。視線の先にはファヴィラがいつもの無表情で凛と立っており、長テーブルの上に火を灯した燭台を置いていた。

「ただいまお飲み物のご用意をさせていただきますのでお待ちくださいませ」

「しかし……」

 リュシアンを戸惑いの眼差しで見上げるエミリア。彼は顔を背け、

「一杯飲んだらお帰りください」

 無愛想な口調で言うと、長椅子に座り背凭れに身を預ける。

 椅子を引きエミリアを座らせたファヴィラは、どこか満足そうな顔で部屋を出ていった。

 足元に擦り寄ってきたトニトルスの鼻先をやさしく撫でてやりながらエミリアは、横目でちらりとリュシアンを盗み見る。彼はその視線に気づいていたが目を合わせることなく口を噤み、ハンカチーフの刺繍を指でなぞっている。

「見事な刺繍ですね」

 会話の糸口を探して、エミリアはにこやかに話しかけた。だがリュシアンは手元に目を落としたまま、沈黙を守っている。

「緻密な草花の刺繍の中に“リュシアン”のLの飾り文字が隠れていて驚きました」

 彼はどきりとして思わず顔を上げ、エミリアを見た。視線がぶつかり、目の前に火花が散ったような衝撃を受ける。

 ただ名前の文字をそのまま口にされただけだ。しかしそれは特別な響きをもって彼の耳に届いた。なんとも言えないその懐かしさ……愛の囁きと共に名を呼ばれたときの幸福感が甦る。

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