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FATUM  作者: 紙仲てとら
第二章

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50話

 一方的に取りつけられた約束など無視すればいい。

 そう思いつつも……夜が深まるにつれリュシアンは落ち着きをなくし、先ほどからうろうろと部屋を歩き回っている。

 普段、時刻などは滅多に確認しない。しかし今日は妙に気になる。何度もチェストの上の置き時計に目を遣り、時に鎧戸の隙間から外を窺いながら日中を過ごしてしまった。

 その姿を闇の中からあきれたように見ているのはワーウルフのトニトルスである。乳白色の牙が並んだ口を開けあくびをするたび、山のような黒い影が丸く大きく膨らむ。

「ちょっとは落ち着けよ」

 黒狼は太い尻尾で床を叩くと前足に頭を乗せて寝そべり、再びのあくびを噛み殺しながら言った。リュシアンは睨むようにそちらを一瞥し、

「いいかげん出て行け。獣臭くてかなわん」

「なに言ってやがる。いつも傍らに控えていろと命じたのはおまえだろ」

 あきれたように鼻を鳴らして、トニトルスは目を閉じる。この城での彼の定位置はこの場所、主のベッドの陰だ。

 置き時計が小さくベルを鳴らし午前0時を知らせる。リュシアンは壊れた銀の懐中時計を手のひらに握りしめたまま窓に近寄り、鎧戸の隙間から表を見遣った。

 眼下の街は夜霧に包まれ人影は見当たらない。彼は遠くまで目を凝らす。その虹彩の奥に白銀の炎がちろりと燃えた。

 不安と期待の入り交じった複雑な思いを抱えながら往来を視線でなぞっていると、部屋の暗がりから水のように湧いてきた声が背を叩く。

「お兄さま」

 リュシアンは静かに振り向いた。視線の先、室内に溜まる闇が大きく波打つ。その波紋の中からファヴィラが音もなく現れた。

「エミリア様が修道院を出発されたようです」

 知らせを受けた彼は何か言いたそうに唇を開いたが――薄闇に紛れたファヴィラの異変にすぐさま気づき、舌の先まで出かかった声を飲む。

 胸騒ぎを覚え、背後の鎧戸を大きく開いた。表からの淡い光の中でその姿をはっきりと視認した瞬間、彼は眉をひそめる。

「その顔はどうした」

 うつむいたファヴィラは問いかけに答えようとせず、闇に沈んだまま動かない。溜息をついたリュシアンは窓から離れて彼女の目の前に立つ。そして大きな両手で頬を包み込むと、強引に上向かせた。

 月明りに輝く顔を見つめて、彼はさらに眉間の皺を深くする。

 すこし姿を見ないあいだに、ファヴィラはすっかり面変わりしていた。薄い皮膚には幾筋もの青黒い血管が浮かび上がり、その隙間を縫うように呪文が細かく刻まれている。

「まさか……禁術を使ったのか?」

 問われたファヴィラはゆるりと頷き、

「エミリア様をお守りするためです」

「馬鹿なことを!」

 魔力が枯渇し弱っている彼女を前にそれ以上は言えず、彼は唇を噛む。ファヴィラは醜く変貌してしまった顔を伏せて言った。

「危機が迫っております。先ほど使い魔の鴉たちにエミリア様の護衛を命じました」

 まぶたを上げたトニトルスが、横目で彼女の背を見つめ尋ねる。

「危機だって?」

「930年前……マリアンヌ様の命を奪った人間とエミリア様の運命が、再び交差している……」

 聞くなり息を呑み、リュシアンは身を強張らせた。

「まさかあの女が……――ジーナ・ガラが、この時代に転生しているというのか?」

 震えながら言った彼の瞳が憤怒に燃える。

「さようでございます。今こそ、この因縁に終止符を打つとき」

 ファヴィラは顔を上げた。しかし、リュシアンが覗き込んでも視線が合わない。白濁した緑の虹彩はほとんど見えていないようだ。

「必ずやジーナ・ガラの生まれ変わりを見つけ出し、お兄さまの恨みを晴らしてみせましょう。私にお任せください」

「おまえは休んでいろ」

 リュシアンは苦悶の表情で妹を見下ろし、絞るような声で言う。

「あの女はトニトルスと私で始末する」

「女とは限らんぞ」

 トニトルスが頭を上げゆっくりとその巨体を起こす。

「おまえに話すと面倒なことになりそうだったから言いたくなかったんだが……あのひとから男の欲望の臭いがする。ハリー・トマスとかいう司祭ではない、別の男だ。それもかなり近しい存在。オレはてっきり、清廉な修道女に歪んだ劣情を抱いているのかと思っていたが、それが恨みだとか殺意だとしたら……」

 ふと言葉を切り、宙に首を伸ばした狼は尖った耳を動かした。

「――来たようだぞ」

 彼がそう告げると共に、ドアノッカーの硬質な音が壁を伝ってくる。

 息を詰めたリュシアンは目を瞠り耳を澄ませた。いつもは遅く弱々しい拍動を繰り返している心臓が大きく脈打つのを感じる。

「もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ」

 からかうように言った狼は立ち上がる。ひとりでに開いた扉の向こう、廊下の壁掛け燭台に火が灯るのがリュシアンの目に映る。

 黙って立ち尽くす彼に振り向いたトニトルスは、黄金の瞳を細めた。笑っているようだった。

「おまえが出迎えないなら、オレが行こう」

 狼は尻尾をひと振りすると、廊下を駆けていく。

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