49話
黒ずんだ指は動き続け、パンはどんどん細かくなっていく。一向に口に運ぼうとしない彼の指先を睨むように見つめたまま、エミリアは芯の通った声で言う。
「どれほどの罪を犯そうと、神は見捨てたりなさいません。改心する機会は必ず訪れます」
「人間であればな」
せせら笑いながらモーリスは、ちぎったパンをようやく口の中へ放った。
「食ったんだぞ?母親代わりの女を」
下品な音を立てて咀嚼しながら彼は続ける。
「肌に牙を突き立て、噛みちぎった首の肉を咀嚼し飲み込んだ」
「モーリスさん。それ以上は、どうか……およしになって」
表情を険しくしたエミリアはわずかに語気を強める。
ようやく口のなかの物を嚥下すると、モーリスはひとかけらのパンを指先でつまみ、あたかも見えているかのように顔の前に翳す。しばらくそうしていたがやがて伸ばした舌の上に乗せると、今度は噛まずにそのまま飲み下した。
エミリアはこの男の奇妙な行動を言葉もなく見遣る。理不尽な現実に絶望し気が狂ったのか、それとも――
「なあ、シスター……聖霊大祭の日、信徒を混乱に陥れた犯人はあんたなんだろ?」
突然の問い掛けに、エミリアは内心たじろいだ。しかし平静を装って答える。
「私はただ、儀式が滞りなく進行するようお手伝いしていただけです」
「トマス神父が失神しあんたも虚脱状態だったそうじゃないか。皆が噂しているぞ……シスター・エミリアが聖堂内に悪魔を召き悪さをさせたのだと。被害者のふりをした加害者なのだと……」
エミリアは首から下げたクインレスタのメダリオンを無意識のうちに握りしめて答える。
「神と母の名に誓って、そのような悪しき行いはしておりません」
「しらを切るつもりならそれでも構わない。いずれすべてが明らかになるのだから」
吐き捨てるように言ったモーリスは布団の上にこぼれたパンを払い落し、困惑するエミリアの肩を支えにして立ち上がった。そしてベッド下に押し込んであった古い革の鞄を引っ張り出すと、チェストに入っている私物を次々と収めていく。盲人ということを忘れさせるほど迷いのない動きだ。
手早く荷造りを終えた彼は壁のフックに掛けていたぼろぼろのマントを掴むと、布越しに目を合わせるかのようにエミリアの顔を覗き込み、告げた。
「出ていくよ。世話になったな」
「お待ちください!一体どこへ……」
「昨今のケンプベルの情勢を耳にした知人が文を寄越してね……空き部屋を貸してくれるというから、そいつの元に身を寄せるつもりだ。いや、その前に……クレアの様子を見に行ってみるとするか」
彼女は目を瞠り、立ち上がる。疑問を投げかけられるより先にモーリスは言葉を継いだ。
「あの子は俺たちのすぐ近くにいる」
「それはありえません。クレアはラムレイズ島の監獄に収容されたと公の場で発表がありました」
「あんな嘘を信じるとはね。昨晩もこの辺りをうろついていたよ。臭いでわかる」
モーリスは鼻を指差し、下卑た笑い声を上げる。唇の隙間から黄ばんだ乱杭歯が覗いている。
「魔封じの儀式ができる誰かが、聖なるものでクレアの周囲を囲み結界を張っているようだが……無駄なことだ。神の戒めや人間の施す拘束は一時的に魔物の力を奪い怯ませるだろうが、その悪事を抑止することまではできない。この地がクインレスタの加護を受けている場所とはいえ、夜はあの子の天下だ」
「クレアはあなたが考えているような悪しき者じゃない。人間の少女です」
エミリアはきつく眉根を寄せ、震えながら言った。声の調子で彼女の動揺を悟ったか、モーリスは肩を揺らしてくつくつ笑う。
「どうやら何も知らされていないようだな。神父様はあんたをまったく信用していないと見える」
マントを羽織った彼はところどころ破れかけているフードを頭から被ると、革の鞄と杖を手にエミリアの横をすり抜ける。そして扉の前で立ち止まり、彫刻のように身じろぎもしない彼女に振り向き言い放った。
「とある魔物は思念を飛ばして鳥や虫、ネズミを操り獲物を探すという。クレアはそいつらと同類になったんだよ、シスター・エミリア。一寸先も見えないほどの濃密な闇ですら少女の視界を奪うことはできない。漆黒に満たされた往来で獲物を狩り満腹になるまで血を啜ることだろう」
「いい加減なことをおっしゃらないでください」
「真実は自分の目で確かめたらいい」
そう言い残し、モーリスは杖の先で床を探りながら扉の向こうに去っていった。
特徴のある足音が遠ざかっていく。残されたエミリアは憤りと恐怖に胸を詰まらせ身じろぎもせず床を凝視していたが、扉が閉まると同時に踵を返し小走りで彼の後を追った。
必死の形相で廊下に飛び出すも、彼はもういない。肩から力を抜き溜息をつくと、室内の方に首を回らせる。老爺は口を開け、深く眠っている。
そろそろ修道院に戻らなけらばならない時間だ。エミリアは明かりもなく静まり返った廊下を歩き出した。
通りに面した正面玄関ではなく、庭に面した大窓を開けて外に出る。辺りは夕暮れのうら寂しい気配に包まれていた。生温い風が吹き、砂利も芝も敷いていない剥き出しの地面から細かい砂埃が舞い上がる。目を細めたエミリアは腕で口と鼻を覆い、やわらかな光の中に立ち尽くした。
教会の方から、時を知らせる鐘の音が響いてくる。その単調な音色を背中に聞きながら彼女は再び歩を進める。広い庭をまっすぐに突っ切ると、風除けと目隠しを兼ねた植木の間をくぐり抜けて細い裏通りに出た。
エミリアは苦悶に満ちた顔で人けのない道を足早に歩いていく。その胸の奥には、先ほどのモーリスの言葉が胸に突き刺さっていた。
――“神父様はあんたをまったく信用していないと見える”
彼の言う通りだ……反論の余地はない。近頃のトマス神父の言動を見れば、何か重要なことを隠しているのは明らかである。
聖霊大祭以降、神父との関係は急激に悪化した。意見の対立や町に蔓延する悪い噂が引き金となり教会での立場は日を追うごとに危うくなってきている。副助祭代理を名乗り出たギルバートが教会運営の一翼を担うようになってからというもの、各教区の司教が集まる定例会議にも呼ばれなくなってしまった。彼が神父の部屋を頻繁に出入りしているところを見るにつけ、教会の今後に関する話し合いが行われているに違いないが、議論の内容がこちらに共有されることはない。役職は保持しているものの、常に蚊帳の外だ。
司祭の補佐役である副助祭という役目に誇りを持ち今まで真摯に務めてきたが、トマス神父にとって自分は頼れる仲間ではなく、取るに足らぬ存在だったのではないかと、エミリアは思い始めていた。
かつて神父は言った――宗教に国境はなく国籍も関係ない、私たちは互いに信頼を預け合う同志であると。彼の言葉を思い出しながらエミリアは地面に顔をうつむける。
唇をきつく噛みしめた彼女は芝で覆われた緩やかな丘を無心で駆け上がり、そして振り向いた。黒いベールが風を孕んで大きく靡き、しなやかな亜麻色の髪が頬を打つ。
眼下に広がる街並み。その中に、巨大な聖堂が静かに座している。彼女はケンプベルの象徴であるそれを見つめたまま、崩れるように膝をついた。熱く燃えるまぶたを閉じ、祈りの指を組む。沈む夕陽が真珠の肌を照らし、睫毛に滲む涙を赤く染める。
やがて太陽は落ち、町に静寂をもたらす夜がやって来た。しおれた花のようにその場に座り込むエミリアの頭上に星が潤む。
指をほどいた彼女は、夜闇に黒く濡れた草を踏みしめ立ち上がった。そして聖堂の鐘楼に灯された光を目に映したまま、丘をゆっくりと下っていった。




