48話
この施設にはもう数人しか住んでいない。なぜならクレアの事件後、悪魔に穢された場所は取り壊すべきだという声が州議会で上がり閉院が決定されたため存続が叶わなくなったためだ。退去命令が発令され、ここに暮らしていた者たちは立ち退きを余儀なくされた。
施設解体の指揮を執っているのはケンプベルの治安判事長ジョルジュ・ベルティであったが、裏でレイモンド公パトリック・チェスターが暗躍しているらしいと、エミリアは風の噂で聞いていた。彼は今回ネルフィナ救貧院内で起こった凄惨な殺人事件を都合よく利用し「放置すれば悪魔の呪いが連鎖する」などと言って州議会議員である貴族たちの危機感を煽り閉院を決定させたという。
権力闘争に明け暮れる支配者たちに翻弄され混迷の時代を生きてきた老人たちは口々にこう話す――レイモンド公は“秩序を取り戻す”という大義名分のもと大規模な粛清を行うつもりなのだと。施設で保護されていた出自のはっきりしない者や天涯孤独な老人、親のいない子どもたち、心身に障がいを抱える者を町から追い出すという差別的かつ悪意に満ちた魂胆があるのだと……
ネルフィナ救貧院を後にした者たちの受け皿は用意されていない。路上生活は厳しく罰せられるため、彼らは居場所を求めて町を去り、各地に散らばっていった。事情を知った善良な富裕層が、孤児を養子として引き取ったり使用人として雇ったりして安全な場所に保護したが、当然ながらすべてを救うことはできない。後見人も引き取り手もいない子どもや、介護が必要な末期患者、重度の障がい者など、院内に取り残された人々の未来は絶望的だった。
退去命令を頑として受け入れず救貧院に居座る者は秘密裏に始末される……そんな噂がまことしやかに囁かれるようになると、院の雰囲気はさらに殺伐としたものになった。所持品を残したままある日突然行方知れずになった者も実際にいることから、下肢の欠損や持病でベッドから動けない者たちなどはここを去る気持ちはあってもそれができず恐怖に震える毎日だという。
エミリアは取り残された人々が暮らす部屋を訪い、腹を空かせた彼らにパンとミルクを分け与えて回った。どの部屋も凄惨な状態であった。彼女は、職員がいないため垂れ流し状態になっている糞尿を片付け、汚れた体を清めてやった。
そして最後の一か所、メリッサ・カラベが殺害された部屋に、彼女は重苦しい気持ちで入っていった。
かつてこの部屋には5人が暮らしていたが、今は2人しかいない。残ったのは寝たきりの老爺と、盲目の男モーリス・ハミルトンだけだ。
モーリスは扉が開く微かな音で人の気配を察知し、顔をそちらへ向ける。老爺の方はぴくりとも動かない。眠っているようだ。
「シスター・エミリア。久しぶりだな」
エミリアは以前、入ってきただけで来訪者が誰なのかわかるのはどうしてなのかと尋ねたことがあった。モーリスは、足音と匂いだと答えた。特に修道者は香やハーブの匂いがするためすぐにわかるという。
彼は相変わらず汚れた布を目元に巻き付けている。エミリアは靴音を鳴らしながら彼のベッドに近づいた。そして、パンの入った籠とミルクの瓶をナイトテーブルの上に置き、ベッド脇の椅子に腰掛ける。
音と気配で彼女の動きを追っていたモーリスは、乾きひび割れた唇に薄く笑みを浮かべた。
「祈りの言葉は?」
「心の中で」
エミリアは静かにそう応え、ふたりはそれぞれ指を組み項垂れる。
目を閉じたエミリアは、かつてのこの施設に住んでいた者たちを思い、クレアを思い、彼女の母代わりとなって真摯に愛情を注いでいたメリッサを思った。
祈る彼女の眉間に、微かな苦悶が刻まれる。
事前通達もなく一方的に閉鎖を命じられたネルフィナ救貧院。罪を犯したとはいえ、公式の裁判にかけられることもなく離島の監獄に送られた少女。なにかがおかしい。この町には今、大きな歪が生じている……
「パンを」
その言葉にエミリアはまぶたを開き、顔を上げた。見れば、指の結びを解いたモーリスが両の手のひらをこちらに差し出している。
エミリアはパンを握らせ、木椀の中にミルクを注ぐ。
口数の少ないエミリアを訝しく思ったのか、モーリスはパンをちぎりながら問うた。
「どうしたんだい。今日はやけに大人しいじゃないか」
「……この部屋もさみしくなりましたね」
「長く暮らした場所だ、去ることを惜しむ者ばかりだったが……ここは呪われた場所になってしまったからな」
ちぎったパンを更に小さくちぎりながらモーリスは続ける。
「事件が起こった時、俺は中庭にいた。濃厚な血のにおいがしたから誰かが大怪我を負ったことはすぐにわかったよ。目が見えない分、鼻がよく利くもんでね」
遣る瀬無い思いを抱いたエミリアは、粟立つ腕を服の上からさすった。
「私は、まだ信じられません。まさかクレアがメリッサを襲うだなんて」
「そうか?俺は犯人がクレアだと聞いて妙に納得したがね。近頃のクレアは異様な臭いを発していたからな。人間のものではない……例えるなら湿原に棲む獣のような生臭いにおいだ。なにか悪いことが起こるような気はしていた」
エミリアは顔を強張らせ、不快感が胸に満ちていくのを感じながら黙っていた。彼女の心中を知ってか知らずか、モーリスはいつもと変わらぬ声音で言葉を紡ぐ。
「あの子どもの魂はもう救えない」




