47話
「出て行くのをやめる?」
叫んだトニトルスは、ぽかんと口を開けたままリュシアンを見た。
「やめるわけではない。とりあえずまだ……あと少しだけここにいる、と言っている」
「ようやく荷物をまとめ終わったってのによ……主人の気まぐれには困ったもんだ」
蓬髪に指を差し込み乱暴に掻きむしりながらぼやいていると、伸び上がった暖炉の炎がぐるりと宙で輪を描き笑い声を上げた。
「なにがおかしい」
リュシアンがしかめ面でその方を睨みつける。火の精霊イグニスは愉快そうにその身を揺らめかせながら、
「あんなにも頑なだったあなた様のお気持ちをほどいたのは、どこのどなたでしょうかな……」
「決まってるだろ。あのひとさ」
トニトルスが溜息まじりに口を挟むと、炎は哄笑し激しく火柱を上げた。
火の粉を散らしながら燃え盛る炎が室内を赤々と照らし出す。目が痛むほどにまばゆい光を全身に受けながらトニトルスは、漆黒の前髪の隙間からリュシアンを見てにやと笑い、
「で?どうするんだ、ご主人さま?まさか遠くから愛でているばかりじゃあるまい」
「特になにが変わるわけでもない。向こうから来たら退屈しのぎに相手をしてやるだけだ」
長い脚を振り上げて椅子から立ち上がったリュシアンは、木箱に詰まっている大量の書物を本棚に戻し始めた。
暖炉に薪を投げ入れながらトニトルスが誰にともなくつぶやく。
「ファヴィラの言っていたこともあながち間違いではないな」
「なんのことだ」
手を止め、訝しげな顔で振り向いたリュシアンに、狼は言う。
「器が変われども魂の形は変わらない。必ず対になり惹かれ合う」
「たとえどんなに互いを愛そうと、教会の人間と魔物が結ばれることはない。今回の旅はとんだ無駄骨だった」
ふんと鼻を鳴らし、彼は手に持っていた本を乱暴に押し込む。
「そんな言い方をするのはよせ。ファヴィラがおまえのためにと懸命に探し出したんだ」
トニトルスは金色に光る瞳で真っ直ぐにリュシアンを見た。
「あいつ……おまえの役に立とうと必死になりすぎて、己を見失っているぞ。下級ヴァンパイアのくせに魔女まがいのことをしているから、だいぶ消耗しちまってる」
ファヴィラは700年以上を生きるヴァンパイアだ。魔力が弱いため下級に分類されるが、未来の断片を見られるというめずらしい才能を持っている。その異色の才と長年培ってきた知識を生かし、占術でマリアンヌの魂の行方を探り当て、これまで何度もリュシアンを転生先まで導いた。
しかし近年その精度が著しく低下している。
それにはリュシアンも気づいていた。マリアンヌの生まれ変わりであるあの修道女――エミリア・コレットを探し出すのにだいぶ苦労していたようだ。彼は黙々と部屋を整えながら、義理の妹の健気な献身を思う。
「魔力がだいぶ落ちてるから予言は当てにならない。しばらく休ませろ、いいな」
狼はそう言い含め、彼の返事を待たず言葉を継ぐ。
「ところでこのあいだ、城を訪れたあのひとの匂いを嗅いだが……どうにも目障りなのが一匹、あのひとの周りをうろついているようだ。こちらと通じていることを知って彼女に取り入り、おまえの尻尾を掴もうとしているのかもしれない」
トニトルスは言いながらリュシアンの背後に立ち、その首に指を掛けた。伸びた爪が薄くやわらかな皮膚に食い込む。
「油断していると頭を切り落とされるぞ」
耳に唇を押し当て、黄金の目を細める。
「愚かな獣め……我が主に触れるなと言うのがまだわからんか」
イグニスが暖炉を抜け出し、火の舌を震わせる。煌々と燃え滾りながら体に絡んでくる炎を腕で払いのけたトニトルスは、リュシアンを軽々と抱え上げて長椅子に座り、腕の中に包み込んだまま囁いた。
「ネルフィナ救貧院にいるモーリス・ハミルトンという男を知っているか?」
彼の膝の上でリュシアンが首を横に振る。
主が狼に抱かれたまま抵抗もせず大人しくしているのを見たからなのか、イグニスは不満そうに黒煙を吐きながらも再び暖炉に収まった。静かになった火を一瞥し、トニトルスは続ける。
「メトゥスに襲われたルトマイア公エリック・デュランをバラバラにした犯人だ。他の8人を始末したのもおそらくこいつだろう」
「ずいぶんと手慣れているようだが何者だ?」
「ヘルマドラ国王軍の陸軍司令官だったそうだ。失明したことが原因で名誉除隊した直後、在役中の汚職が明るみに出てすべてを失い……現在は救貧院の世話になってるらしい」
「盲人のしわざとは思えんが」
「視覚に障がいがあるにもかかわらず人に紛れて生きているヴァンパイアを探し出し、蘇らないよう的確に処理しているところを見るとどうやら特殊な訓練を受けているようだな。布で隠しているが奴の眉間に、神の象徴であるエピヌの星が刻まれている。これはクインレスタ教原理主義者の証だ」
「救国派か。教皇庁に祈祓師として認められなかった憐れな者たちが寄り集まって創設した宗派と聞いているが……ずいぶん優秀な人材を抱えているじゃないか」
唇だけで小さく笑うと、トニトルスは神妙な顔で頷き声を低めた。
「モーリス・ハミルトンがヴァンパイアを特定できる能力を持っているなら、奴はすでにおまえの正体を見破っていることになる。今は大人しくしているようだが、油断せず十分に用心しろよリュシアン。神の犬は狩り時と見れば牙を剥いて駆け出しどこまでも追いかけてくるぞ」
トニトルスの警告に反応するように、火の中の薪が大きく爆ぜた。続いて、地を這うような声が暖炉の中から響いてくる。
「神からの恩恵」
「恩恵だと?」
狼が訝し気な顔で繰り返すと、イグニスは更に大きく燃えながら言う。
「盲人にヴァンパイアの力は通じぬ」
リュシアンは眉ひとつ動かさずトニトルスの膝から下り、窓辺に歩み寄った。その目は救貧院の方に向いている。
「誰であろうと邪魔立てするならば容赦はせん」
冷えた眼差しを向けたまま言い放つと、乱暴に鎧戸を閉めた。
それと同時刻、エミリアはネルフィナ救貧院の古びた正面扉を開け放つ。そして独特の臭気に満ちた薄暗い院内に、重い足取りで入っていった。




