46話
「やはりそうか」
リュシアンは笑みをこぼし、
「ヘルマドラ国王が、戦や災害で故郷を失い滅亡の危機にある少数民族の血統と文化を保護し、失われた名誉の回復に尽力されている御方だということは知っているだろう?」
「もちろん存じ上げております」
「亡国の末裔であると明かせば、国王は君にふさわしい地位と名声を与えてくださるはずだ。君が高貴な身分であることが知れ渡ったらこの町の人間も不敬罪を恐れて手出しできなくなる。持って生まれた権利を享受すれば楽に生きられるというのに……なぜ出自を隠す?」
「……」
「興味がある。教えてくれないか」
静かに促す彼の声がわずかに熱を帯びているのを、エミリアは感じた。足元の芝に目を落としたまま、彼女はか細い声で答える。
「ミュリアス家の栄光は過去のこと。天変地異が原因でトリアノ大陸が海に沈み、故郷を追われた我が先祖はドラド大公国に身を寄せ大公閣下のご温情を賜り栄えましたが、大国間の戦で各地が火の海となっていることを憂えた57代目当主トリスタン・ミュリアスが修道者となり山奥に隠遁……その際、爵位と領地を返上したそうです」
「戦とは……900年前の禁廷戦争のことだな?」
「左様でございます」
「“真珠事件”が発端となってヘルマドラ王国とゼールラント帝国の間で戦争が勃発し、最終的に周辺国を巻き込んだ大戦へと発展した……歴史上最も多くの犠牲者を出したといわれる惨烈な戦い」彼は当時のことを鮮明に思い出しながら言葉を継ぐ。「この戦争で我が祖国ドラド大公国も帝国に侵攻され甚大な被害に見舞われたという。大公閣下の庇護を受けここに移り住んでいた君の先祖も大変なご苦労をされたであろう」
「当主と権力を失い凋落した一族は身を寄せ合ってドラド大公国を脱出し、戦火を逃れてラングベッカー王国に渡りました。そこで細々と血筋を繋ぎ、やがて各国に散り散りになったと聞きます。血縁者の中には時の権力者にすがりかつての威光を取り戻した者もおりますが、直系の末裔のほとんどは政治的権力を望みません。身分と財を捨て数百年……我らは今や雲上人に非ずと、代々教え諭されているからです。市井に生きる者としての自覚を持ち、私と同じく生涯神に仕える者もおりますし……商売人の道を選んだ者もおります」
エミリアの声が途切れたそのとき、11時を知らせる聖堂の鐘が鳴り響く。リュシアンは痛む耳を押さえた。
「アルベスク様……いかがなさいましたか?」
「すこしめまいがしただけだ。案ずるな」
耳から手を離しかぶりを振った彼の目に、エミリアの濡れた足が映る。このまま修道院へ戻るつもりなのだろうか。
リュシアンはほぼ反射的に、腰に下げていた小さなレザーポーチから純白のハンカチーフを抜き取った。
「これを」
驚いたエミリアは声を無くし、差し出されたそれをただ見つめている。リュシアンは受け取るのを躊躇っているエミリアの手に押しつけるようにそれを渡すと、
「足。拭いた方がいい」
「でも、こんな高価なもの――」
「いいから使いたまえ」
リュシアンは乱暴に言い放ち、顔を背ける。その横顔は、つんと取り澄ましているが以前のような冷たさは感じられない。
布を縁取る繊細なレースに目を落としたエミリアは、真白い頬を薄紅色に染めた。
「ありがとうございます。きれいに洗って、お返しします」
「いらん」
素っ気なく言い放って踵を返す。早足で立ち去ろうとするリュシアンの腕を強く引き、エミリアは言った。
「明日の夜、すこしだけお時間をいただけませんか」
懇願する彼女の手を振り払い、リュシアンは振り向いた。怒気を孕んだ言動とは裏腹、彼の表情は驚きと困惑に染まっている。
「返すつもりならば結構だ。捨ててくれ」
「捨てられるわけないじゃありませんか」眉尻を下げ、エミリアは続ける。「皆が寝静まった深夜……日付が変わる頃に参りますからどうか、門を開けておいてください」
「城に来てはいけない。我々と関わったせいで今以上に君が苦しむことになったら、私は……」
「この町を出ていってしまわれるのでしょう?借りたものを返せないまま見送るだなんて、私にはできません」
声を喉に詰まらせたリュシアンは苦い顔をする。真摯な思いが高じて前のめりになりながら、エミリアはさらに言った。
「聖典の一節に“神の御子は惻隠の情において慈悲と慈愛を与うる。これを受くる者は厚恩に報いよ”とあります。私たち修道者は神のお言葉に対し忠実に――」
「もういい、わかった」
彼はぴしゃりと相手の言葉を遮って、
「出立は取りやめる」
口早にそう言う。するとその瞬間、エミリアは頬を染めたまま心底嬉しそうに笑った。まるで、花が咲いたようであった。
胸の奥が熱くなり動揺したリュシアンは、瑞々しい薔薇のような彼女の顔から目を逸らす。
「しばらくのあいだ滞在するつもりだ。この悪状況のなか焦って返しに来ずともよい」
「修道者がこのような贅沢品を持つのは禁じられておりますゆえ……時機を待つことなく、お返しに上がります」
エミリアは毅然とした態度でそう口にする。心臓の鼓動が大きく早くなるのを感じながら彼は、蒼白の顔をうつむかせた。
「声を掛けて悪かった。二度とあんなことはしないから、君ももう、私に構うな」
「いやです」
「聞き分けのないことを言うんじゃない」
「いや」
「なんて頑固なんだ君は……」
「お願いだから拒まないで……あなたをずっと待っていたのに、かなしいわ」
エミリアはそこまで言って驚いたように唇を押さえ、息を呑んだ。
黙ったまま目を見開いているリュシアンを前に項垂れると、彼女は怯えた顔で左右に頭を振り、小さな声で言う。
「た……、大変失礼な物言いを……申し訳ございません」
「――今、なんと?」
リュシアンはステッキを取り落とすと突然エミリアの両肩を掴み、射るような眼差しで菫色の瞳を覗き込んだ。
「待っていた、と言ったな?確かに聞いたぞ。私のことを思い出してくれたのか?」
返す言葉を失い戸惑うばかりのエミリアに続けて問おうとしたとき、遠くから犬の鳴き声が聞こえた。
ふたりは弾かれたようにその方に振り向く。目を凝らしてみれば、草花を踏み締め木々の間を縫いながらこちらへ歩いてくる者がいる。
「シスター・エミリア!そこで何をしているんだ」
咎めるような声が飛んでくる。
男の足元にいた白と黒のまだら模様の犬が勢いよくこちらに向かって来ているのが見えた。額に薄く汗を滲ませたエミリアは、必死の形相でリュシアンを見つめる。
「明晩、必ず」
その言葉にリュシアンはただ苦しそうに眉根を寄せたのみで、返事をしなかった。突き離すようにエミリアを押し退けるとステッキを拾い上げ、木立の合間に消えて行く。
その背を見送ることはせず、エミリアはハンカチーフを胸元に押し込むと野菜籠を持ち上げ男の影の方に歩み寄った。誰かと思えば、ギルバートである。
「いつまでも帰ってこないから心配したぞ」彼は語気を強めて言いながら、「誰か一緒だったようだが」険しい顔つきで首を回らせる。
警戒している様子の彼にゆったりと微笑みかけたエミリアは、足にまとわりつく犬の頭を撫でながら答えた。
「旅の御方に道案内をしていただけよ」
そうか、と短く答え、ギルバートはエミリアの心中を見透かそうとするように目をすがめる。
なぜギルバートが犬など連れてきたのか、エミリアは少し不審に思ったが言及することはなかった。ギルバートもそれ以上詮索することはせず、ふたりは連れ立って修道院の方へと歩き出す。




