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FATUM  作者: 紙仲てとら
第二章

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45話

 聖堂を出たエミリアは、使い古した野菜籠を手に修道院の横にある畑に向かった。そして人参や芋などの根菜類を慣れた手つきで収穫すると、重くなった籠を腕に提げてオレンジの木のあいだを通り抜け、小高い丘を上っていった。

 修道院が管理する牧場を抜けた先は、豊かな森林が広がっている。星見の森と呼ばれているそこには小川が流れており、夏が近づいてくるとエミリアは野菜の泥を落とすときや洗濯などの用事を済ませるついでに、よくここで涼を取っていた。

 遥か遠く、丘陵を縫いながら流れてくる清流は美しく、緩やかだ。エミリアは川のほとりで腕を捲り、収穫したばかりの野菜の泥を落とし始める。

 彼女の白く美しい手はすぐにかじかみ赤くなっていく。真夏でもここの水はひんやりとしており、ましてや春先である今は痛いほど冷たい。

 手早くすべての野菜を洗い終えると、エミリアは服の袖で額の汗を拭った。正午に近づくにつれ強くなっていく太陽の光は枝葉の緑を鮮やかに輝かせる。

 彼女はぼんやりとした顔で両膝をついたまま、不規則に並び立つ木々を見るともなしに眺めた。鳥たちが鳴き交わす美しい声が森の奥から吹いてくる風に乗って耳に届く。

 葉がこすれ合う音にまじって、柳の笛の音色が微かに聞こえた。羊の世話を手伝ってくれている神学校の生徒が吹いているのだろう。

 緑に囲まれ座り込んだまま、エミリアはなかなか立ち上がろうとしなかった。

 水の流れを見ているうちに一抹の虚しさを覚え、ほとんど無意識に嘆息する。暗く冷たい胸の中、ふいに浮かんできたのは微笑む母の淡い面影だ。

 母イレーネとは、15の時に島を出てから一度も会っていない。手紙のやりとりは頻繁にしているものの、文面から受け取れる情報はわずかで、その姿は朧に霞んでいる。

 昨日届いた手紙には、仕事中に腰を痛めたと書いてあった。母は自身の負傷をおもしろおかしい失敗談として綴っていたが、エミリアはそれを読みひどく胸を痛めた。怪我をしたり病に臥せるとき、心細さを感じることもあるだろう。あの辺りの治安はさほど悪くはないものの、女性がひとりで暮らすのに適した場所とはいえない。

 彼女はしばらく木立に目を向けたまま神妙な顔をしていたが、おもむろに靴を脱ぐと長いスカートを大胆にたくし上げ、せせらぎの中に両脚を浸した。清冽な流れが火照った肌に心地よい。

 母の手もこの水のように、いつも冷たかった覚えがある。

 心が弱くなっているせいか、なにをしても懐かしい母のことを思い出し寂しくなってしまう。彼女は物憂げな目を伏せ小さく息をついた。

 母はいつも一番の理解者でいてくれた。隠した心の声にも、耳を傾けてくれた……だからこそ、信頼のおけるオーガスト・キンバリーに協力を仰ぎ新たな道に進むための手助けをしてくれたのだ。

 あなたなら大丈夫。ロメネル島を出るとき母はそう言った。

 今、もう一度言って欲しかった。“エミリア、あなたなら大丈夫”……

 目頭が熱くなり、漆黒のスカートの上に涙がつぎつぎとこぼれ落ちていく。今日は泣いてばかりだ。情けなくなって奥歯を食いしばりうつむくと、まぶたの熱を奪おうとするように冷たい手で目を覆った。

 そのときだ。草や枯葉を踏みしめる音が微かに耳に届き、エミリアははっとして振り向いた。

 そのまま動きを止めた彼女の顔に、驚愕の表情が広がっていく。

 そこには黒いシルクハットを被ったリュシアン・アルベスクが立っていた。ステッキを片手に唇を引き結び、怪訝な目つきでこちらを見ている。

 今にも悪態をついてきそうな顔をしている彼をまん丸の目で見つめるばかりで、エミリアは何も言えない。

「ごきげんよう。シスター」

 溜息まじりにリュシアンが言う。エミリアは慌てて立ち上がると、脚についた水滴を拭うこともせず靴につま先を突っ込んだ。スカートの尻の部分をぱっぱと払いながら、真っ赤な顔になっている。

 リュシアンは眉をひそめつつ問うた。

「ここでいったい何を?」

「昼食で使う食材を洗いに……」

「へえ……」彼は濡れている足元をちらと見遣り、「君の両脚も食卓に並ぶのか?」そう言うと指先で口元を隠し、優雅に笑う。

 悪戯が見つかってしまった子どものように気まずそうな顔になりながら、エミリアは足を振って水滴を払った。

「アルベスク様はご散策ですか?」

「まあ、そんなところだ」

 リュシアンは辺りを見渡しながら素っ気なく答える。エミリアは頬を赤く染めたまま、うれしそうに笑った。

「私も暇があるとよくこの辺りを歩きます。人がほとんど来なくて、静かですから……」

 彼は鷹揚に頷く。手持無沙汰なのか、川の水をステッキの先で弄りながら言った。

「ケンプベルの中で、この森だけは気に入っている。ここに来る前ヨークエヴァに滞在していたのだが……あの町はとにかく空気が悪くてね。黒い霧が出たときは苦いように感じるくらいで、こうして散歩することもままならなかった」

「黒い霧?」

「あの一帯に乱立する工場が大量の石炭を燃やすから煤煙が酷いんだ。風向きによっては町全体が黒い霧に包まれたようになるのだよ」

 ヨークエヴァには数回しか行ったことがないが、大自然に囲まれたケンプベルとは正反対の大都市である。都会は異文化交流が盛んなぶん閉鎖的な田舎よりも外から来た人間に寛容だ。空気は悪くとも、ここよりもずっと暮らしやすいのではないだろうか。そんなことを考えながらエミリアはほのかに笑う。

「まさかもう一度お話できるときがくるだなんて。二度とお会いすることはないだろうと思っておりましたから、嬉しくて……なんだか夢のようですわ」

 ここでお互い、ふと黙って見つめ合う瞬間があった。彼女の睫毛に涙の名残を見たリュシアンは、表情を硬くする。

「泣いていたのか」

 美しく澄んだアイスブルーの瞳から目を逸らし、エミリアは顔を背けた。

「教会で何か問題が?」

「いいえ……ただ、すこし感傷的になってしまっただけなんです。故郷に置いてきた母のことが気がかりで」

「生まれはどこだ」

「ロメネル島です」

「カルタイ王国出身であったか」ふむと頷き、「――いや、しかし……あれに暮らす島民は褐色の肌に黒髪のはずだが」

 独り言ちたリュシアンは目を細め、エミリアを舐めるように見る。

「その雪のごとき肌と亜麻色の髪、菫色の瞳……もしやトリアノ大陸ナダリスを統治していたミュリアス家の末裔か?」

 リュシアンは当然、この一族のことに詳しかったが、あえて知らないふりでそう尋ねた。虚を突かれたような顔をしているエミリアに一歩近づき、彼女の瞳の底を覗き込むように見下ろす。

「菫色の瞳は帝位継承者の証。ミュリアス家の直系にしか生まれないはず」

 先祖のことは軽率に口にしないようにと母から言われているが、ここまで知っているとなると誤魔化すことは難しいように思われた。動揺を隠せぬエミリアは目を泳がせ、わずかに顔をうつむけて言った。

「まさかこの地で、千年前に沈んだ幻の大陸を知る御方に出会うとは……」

 躊躇うように噛んだ唇をほどいて、彼女は言葉を続ける。

「お察しの通り私は、ナダリス帝国最後の皇帝ロイ・コレット・マクベール・ミュリアスの直系にございます」

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