44話
リュシアンは日差しの中に手をかざす。青白い肌の上で光が跳ね、爪の先をきらめかせる。
ヴァンパイアにとって陽光は有害なものだ。特に低級ヴァンパイアなどは長時間浴びていると体が燃え上がり、死に至ることもある。リュシアンのような上級種であっても、魔力が低下しているときは油断できない。発火はせずとも、肌に爛れや火ぶくれといった症状が出現することがあるからだ。
光で遊んでいた彼は、痛み出した右腕をブラウスの上からさすった。そこには手のひらほどの大きさの火傷跡がくっきりと残っている。これはヴァンパイアとなり初めて迎えた朝に太陽が刻んだ罰だ。他の箇所に負った熱傷は跡形もなく治癒したが、なぜかこの部分だけは900年以上経った今でも消えず、こうして陽光を浴びていると稀に疼痛が出る。
その昔――ヴァンパイアとして未熟だった頃は、窓越しの光でも肌が焦げるほどで日中は外出もままならなかった。火傷の薬を求めて日暮れの町に出るも、すれ違う者たちはみな、肌のあちこちが焼け爛れている男を忌み恐れ、怪物あつかいした。
憤る力もなく、ただ悲しみに暮れる日々を送る中、救いの手は差し伸べられた。一部の人間たちが、痛みに苦しんでいる姿を見て助けてくれたのだ。
神に愛される人間の魂は総じて清らかであった。善良な彼らは、火傷だらけの肌に薬を塗り、介抱してくれた。しかしこの親切な人々すらも、こちらと繋がりを持ったばかりに「怪物の仲間だ」と周囲から誤解され誹りを受けた。平和に暮らしてきた彼らが自分と関わったことがきっかけで非難の対象になってしまったことを思うと、今も胸が痛む。
200年300年と生きるうちに魔力が高まり、昼間も表を出歩けるようにはなったが状況はなにも変わっていない。故郷であるドラド大公国以外では滅多に見かけることのない、プラチナブロンドの髪とアイスブルーの瞳……この容姿はいい意味でも悪い意味でも人目を引き、好奇や猜疑の的となる。そして毎回のように、善良な人間を巻き込み傷つけてしまうのだ。
リュシアンは悲哀の色を顔に広げたまま、静かに窓を閉める。室内に振り向いたそのとき、長テーブルの下にラタンバスケットが放置してあることに気づいた。
エミリア・コレットが持って来たものだ。彼は近づき、掛けられている布を取った。中には時間が経ちカビの生えたパン、萎びた林檎と薬草シロップが入っている。
(こんなものを持ってきても意味などないのに)
微かな嘲笑を唇に浮かべ、彼はシロップの小瓶を取り出しテーブルに置く。そしてファヴィラにパンと林檎の処分を言いつけようとしたとき、バスケットの底に二つ折りにされた紙が入っていることに気づいた。
リュシアンは一瞬ためらったが、そっと指先を伸ばす。パン屑を振り落とし開いてみると、エミリアからの手紙だった。
一日も早くご快復されますようお祈りしております
あなた様に神の祝福がありますことを
粗末な紙に書かれた短いメッセージ。流れるように美しく綴られた字をもういちど目でなぞり、彼は手紙を折りたたむ。
容姿や声だけでなく筆跡まで同じだ。
違うのは名前だけだと思っていた。だがエミリアのことを知れば知るほど、その生き方や思想が、自分のよく知るマリアンヌとあまりにもかけ離れていると感じる。
マリアンヌは決して信心深い女ではなかった。聖堂に立ち込める香の匂いが染み込んだ質素な黒い修道服ではなく、甘く馨しい香水のかおりと美しいドレスを纏っていた……
込み上げる激情に駆られたリュシアンは、手紙ごと拳を強く握りしめる。
凝り固まった心をやわらかくほぐすあの微笑み。木漏れ日のように穏やかな眼差しで見上げてくるエミリアが、マリアンヌと重なる。ふたりの魂が同じであるということはまごうことなき事実なのだと実感するたびに、リュシアンの心は荒れた海のように波立った。
神に仕える運命を背負い転生しただなんて、信じたくはない。なにかの間違いであってほしかった。似ているというだけで、別人であったならばどんなによかったか。
たったひとつのまばゆい光、運命の半身――亡き妻マリアンヌに対する狂おしいまでの愛情が、彼を苦しめる。
神に祈る者と心を通わせることなどできないのだから、突き放し別れを告げたのは正しかった。胸を張ってそう言い切りたいができそうもない。菫色の瞳を濡らす涙の中に、彼女の想いの片鱗を見てしまったからだ。
ふたりの間に強烈な引力が働いていることを、彼はわかっていた。いちど見つめ合ってしまったらもう、愛さずにはいられないことも……
鐘楼から響いてくる鐘の音で我に返ったエミリアは顔を上げる。
静まり返った聖堂内には誰もいない。彼女は朝食も食べず、長い時間祭壇の前に跪いていた。何かに迷うときや心の乱れを感じたとき、いつもこうして一心に祈り瞑想するのだ。そうするなかで見つけた答えを神の啓示として受け入れ、人生を歩んできた。
やわらかな静寂に抱きしめられながらエミリアは、またリュシアンのことを考えている自分に気づく。気持ちを切り替えるための深い瞑想も、心にある痛みを消し去ってはくれない。
あまりにも軽率だった……クインレスタ像を見上げながらエミリアは、頭の中で何度もそう繰り返す。
ようやくいつもの冷静さを取り戻した彼女は、己の行動を恥じていた。修道者が各家を訪問することは日常的に行われているし、病気と聞けば見舞いに訪れ平癒の祈りを捧げることが教会の人間の責務だ。とはいえ、面会の約束もなく伯爵家に押しかけるのは明らかに礼儀を欠いた行為である。それに――この状況下で内密に彼に会いに行くことは、トマス神父や修道院の仲間に対する裏切りだ。それを思うと、胸が潰れそうになるのだった。悪感情を持たれているとはいえ、自分にとって大切な人たちであることに変わりはない。
エミリアは今回初めてトマス神父の言いつけに逆らった。彼は別の教区の司祭や修道者たちとのあいだを取り持ってくれた恩人であり、心から尊敬している人物だ。逆らおうなどと考えたこともなかった。それにもかかわらずあの日は、リュシアン・アルベスクに一目会いたいという欲望にどうしても抗えなかった。
自分のしたことは間違っていたという自覚はある。だが……恩義ある人や仲間を裏切ってなお、彼への思慕が身の裡にくすぶっているのをエミリアは感じている。
その心に近づきたいとどんなに望んでも叶うことはない。彼は町を出ていき、もう二度と会えないのだ。そう言い聞かせ気持ちの整理をつけようとするも、しつこく残る胸の痛みがエミリアの顔を曇らせる。この苦痛は長く続くことだろう。己の行いを恥じ、どんなに後悔したところで、彼に奪われた心を取り戻すことはできないのだから。
鐘が鳴り終わると同時、彼女は指先で目元を拭い立ち上がる。時刻は午前10時、そろそろ昼食の下ごしらえを始める時間だ。




