43話
リュシアンは自室の長椅子に寝そべり、懐中時計の秒針をぼんやりと目で追っている。
これは、ジャスミン・リーズという名で初めて転生を果たしたマリアンヌから贈られたものである。蓋つきの懐中時計で、裏蓋には彼の名前の頭文字が刻印してあった。
ファヴィラの占術を頼りにようやく探し出したとき、ジャスミンはすでに既婚者であり、夫と3人の子どもたちと穏やかに暮らしていた。愛する家族に尽くし、良妻賢母を絵に描いたような女であったが――リュシアンと出会ったことで、彼女の人生は一変してしまう。
ひと目見た瞬間に心を奪われたジャスミンは、燃え上がる想いに身を焦がした。もちろん、恋慕の情にもだえ苦しんでいたのはリュシアンも同じだ。彼はかつての妻が自分以外の男と夫婦の契りを結んだことに対しひどく傷つき嫉妬して、彼女の心を取り戻そうと熱烈に迫った。
家族を深く愛していながらも誘惑に抗えず、ジャスミンは夫の目を盗んで逢瀬を重ねるようになる。いけないことと知りながら彼に肌を許し、背徳の愛に溺れた。
見たこともない景色を見てみたいと言うジャスミンと共に、住まいから遠く離れたカルタイ王国を旅行したのは、出会ってすぐのことだった。そのときリュシアンはサファイアブルーのドレスをプレゼントしたのだ。彼女は喜び、お返しにとこの銀の懐中時計をリュシアンに贈った。
やがてリュシアンの正体を知ったジャスミンはその事実を受け止めきれず、永遠を共に生きようと哀願する彼を拒んだ。彼女はリュシアンを愛していたが、夫と子どもたちと限りある人生を生きていくことを選び、彼の元を去っていった。
2度、3度と再会しても同じ結末であった。リュシアンが見つけ出したときにはすでに伴侶がおり、道ならぬ恋に苦しむことになる。悩み迷い愛憎に振り回された末に……マリアンヌの生まれ変わりたちはみなリュシアンを捨て、家族の待つ場所に戻っていく。
彼は拒絶と別れに傷つき絶望しながらも生き続けた。いつか、誰のものでもないマリアンヌの魂と永遠に結ばれる日のために。
贈られたあの日から肌身離さず身につけてきたこの懐中時計は、すでに正確な時を刻まなくなっている。しかし彼にとってはかけがえのないものだった。当時の思い出の品は、愛おしいその姿を鮮明に描き出す。記憶が作り出す幻は数百年もの時を孤独に生きる彼を癒してきたのだ。
「お次はどちらへ?」
書物を紐で括りながら、ファヴィラが尋ねる。我を取り戻したリュシアンはややあって唇を開いた。
「ここから遠い場所ならどこでもいい」
指の先で時計のチェーンを弄りながら無心に答えると、彼は視界の端に影を見て窓の外に目を遣った。鴉の群れが騒ぎながら空を旋回している。あれはおそらくファヴィラの使い魔だ。城の周りにひそむ敵の動きを監視し威嚇しているのだろう。
エミリアに告げた通り、彼はケンプベルを出ようとしていた。ファヴィラは猛反対したが頑として意見を曲げず、夜闇に紛れ行方をくらますことに決めたのだ。
しかし行くあてなどどこにもなかった。
もう故郷と呼べる場所も彼にはない。930年という長い年月は彼に経験と知識を与えたが、同時に多くのものを奪い去っていった。
「あちらはいかがしましょう。書棚のものと合わせてお運びしましょうか」
ファヴィラが視線で指し示した先、ライティングビューローの上には一冊の本が置いてある。彼の日記だ。
「いい。あれは自分で」
人間で会った頃は日記を書く習慣はなかった。闇の世界の住人となってから、彼は日々の出来事を綴り始めたのである。
書くだけで読み返すことはない。しかし数十冊に及ぶそれはいつも彼の傍にあった。様々な国を転々とし手に入れた書物は売ったり失くしたり捨てたりしながら入れ替わったが、これだけは大切に保管してきたのである。
老いもせず永遠に生き続けることは死んでいるのと同じだと、北の魔女ターシャ・ベルーカは言った。彼女の言葉を思い出すたび、リュシアンは得体の知れない恐怖に駆られる。この恐れを和らげるために彼は日記を書くようになった。命というものを実感できなくなった今、日記は自分がこの世に確かに存在しているという唯一の証であった。
そうして彼は、日々の他愛ないことから国を揺るがす歴史的な瞬間に至るまで、身の回りに起こる出来事を気の向くまま書き留めてきた。だが――聖堂でエミリアを見たあの日から、筆が止まっている。
「寝っ転がってないですこしは手伝ったらどうだ」
開け放たれた扉の向こうで、木箱を抱えたトニトルスがリュシアンを睨みつける。人型の彼はいつもと同じく土と砂にまみれた格好だ。きれい好きのリュシアンはその姿で城内をうろつかれることが心底嫌だったが、文句を口にする元気はなかった。
ぺたぺたと足裏を鳴らして(リュシアンは心の中で毒づく……人型のときは靴を履けとあれほど言ったのにまた裸足だ!けむくじゃらの獣め!)入室してきた薄汚いワーウルフは、寝そべる彼を鋭い眼差しで見下ろす。
「地下にあるおまえの食糧はどうするんだ?」
「すべて処分してくれ」
「あの量を?」
「欲しいならくれてやる。たらふく飲むがいい」
「あんな古い血、飲んだら腹壊しちまうよ」
苦い顔で舌打ちしたトニトルスは怒ったように足を踏み鳴らしながら部屋を出ていく。横目で見送った彼は溜息を天井に放つと、ベストのポケットに懐中時計をしまった。
荷造りしながら彼らのやり取りを聞いていたファヴィラは大窓の鎧戸を閉ざし、トニトルスに続いて廊下に出た。そして、長椅子から起き上がった兄の背中に再び声を掛けた。
「今週末には出発できるよう準備を整えておきますので……ごゆっくりお休みくださいませ」
続けて、扉の閉まる重々しい音。
ひとり残されたリュシアンは、ゆっくりと首を回らせた。視線の先の棚にはもう何も入っていない。タペストリーも絵画も外され、来客用の長テーブルや椅子には薄汚れた布が掛けられている。
殺風景になった室内を見渡しながら長椅子から降りると、音をたてぬよう慎重に大窓の鎧戸を開け表を眺めた。
広大な庭は陽光に照らされ瑞々しく輝いている。リュシアンは眩しそうに目を細めながら窓の施錠を解き押し開いた。光が床いっぱいにこぼれると共に暖かく爽やかな風が頬や髪を撫で、暗く淀んだ空間を清めるかのように吹き抜けていく。




