4話
約5年の修行を終え、23歳になったエミリアは聖ラディウス教会の副助祭に任命された。ハントピグリー国教会の最高位聖職者であるロシュ・ゴドリック大主教が彼女の信心深さや献身的な生き方に目を留め抜擢したのである。副助祭は司祭・助祭に次ぐ役職であり、この若さで就任するのは異例のことだ。
そして更に時は流れ、1506年。
聖ラディウス教会は今日も、穏やかな時の懐の中にあった。
今年27歳を迎えようとしているエミリアは副助祭としての務めを堅実に果たし、奉仕活動にも積極的に取り組んでいた。貧しい者や病める者たちに寄り添い、力を尽くすその献身的な姿勢は、共に暮らす修道者たちの模範となっている。
規律を重んじ自分に厳しいが、その厳格さを他人に悟らせないのがエミリア・コレットという女である。
ゆるくウェーブした亜麻色の髪と細かな光を散りばめた菫色の瞳、慈悲深い眼差し、そばかすで飾られた鼻梁……その愛らしい顔はいつも穏やかで、堅苦しい雰囲気は微塵も感じさせない。性格も明るく朗らかで、彼女は今や町中の人々に癒しを与える存在となっている。子どもたちにも親切でやさしく、時には彼らと真剣に遊びに興じ、駆け回るほど無邪気な一面も持ち合わせていた。年齢関係なく誰でも親しみやすいこの性格が、みなに愛される理由のひとつである。
その日もいつもと変わらない朝であった。朝の祈りを終えたエミリアが聖堂のステンドグラスの拭き掃除をしていると、開け放たれた扉に人影が現れた。
「朝からご苦労なことだな」
背中に声を掛けられ、エミリアは扉に振り向く。そこには上背のある男が朝陽を背に立っている。美しい装飾を施した上衣を纏い、堂々とした風格だ。
かじかむ手を拭きながら立ち上がったエミリアは膝を軽く折り曲げて慇懃に一礼すると、清潔な朝の陽光の中で微笑む。
彼女の見つめる先。身廊を歩いてくるのは、ルトマイア公爵家当主エリック・デュラン。ルトマイア州の貴族と民を統率している大領主だ。
彼はステッキを片手に聖堂内を鷹揚な態度で見渡すと、
「トマス神父は?」
「街にお出かけになっています」
「今すぐに呼び戻してくれ。私が犯した罪を告白し神の許しをいただきたいのだ……」
大規模な典礼を近日に控え、背負った罪を懺悔する者は多くいた。神の威光に触れる前に心身を清めるためだ。
エミリアは汚れた雑巾を桶に浸し修道服の裾を払うと、身廊の中央で立ち尽くしている横顔に言った。
「礼拝し、お待ちいただけますか?まもなく戻ると思いますので……」
その言葉に彼の表情は明らかに陰り、
「不在ならば――シスター・エミリア、……あなたでいい。懺悔を聞いてくれ」
「私はまだ修行中の身……申し訳ありませんが、信徒の懺悔を聞くことはできないのです……」
エミリアが困ったように眉を下げると、ルトマイア公爵ははっと天井を見上げ、そしてそのまま首を巡らせ辺りを窺った。明らかな恐怖の色が表情に滲み出し、彼は片手で耳を押さえ顔を背ける。
「どうかなさいましたか?」
その姿に驚いたエミリアが思わず駆け寄ると、公爵は震える声で言った。
「聞こえる……」
彼女は耳を澄ませたがしかし、物音ひとつしない。
「君には聞こえないのか?……女の笑い声が」
耳から手を離し、彼は再び天井を見上げる。そしてすがるような視線をエミリアに向けた。
「私を救ってくれ」
静かな口調だが公爵の顔は紙のように白い。ステッキを持つ手が激しく震えていることにエミリアは気づいた。
「頼む」
「私には神に代わって罪を赦す資格がないのです。司祭をお待ちくださいませ……」
「悪魔と姦淫し血の契りを交わしてしまった」
ルトマイア公爵のその言葉に、彼女は菫色の双眸を大きく見開く。
「この身は穢れている」
エミリアはステッキを取り落とした彼の震える身を支え、信者席に座らせた。ステンドグラスからこぼれる清らかな光を浴びながら虚ろな目を彷徨わせ、彼は消え入りそうな声でつぶやいた。
「やつは夜霧となって窓から忍び入り……見目麗しい女の姿で私の夢に現れ、誘惑するのだ」
「ご安心召されませ、閣下。ここにいらっしゃればもう怯える必要はございません……神の名があなた様を護ってくださいます」
その言葉は、公爵の耳に聞こえていないようだった。彼は虚空を見つめたままおもむろに両指を組むと、唇をわななかせる。
「あの城の者らの所業に違いない……奴らがこの町に災いを振り撒くのだ!温情を与え迎え入れたのがすべての過ちだった!」
彼の言う城のことはエミリアも知っている。
町の奥にそびえるそれは、ジャーメイン城と呼ばれていた。堅牢な石造りの古城で、元の持ち主である貴族の一家はケンプベルの小領主であり、数百年前に没落したと聞く。かつての主が家族や家臣を皆殺しにし、当人も壮絶な死を迎えたことから、その後は誰も寄り付かず長らく廃墟になっていた。だがついに、荒れ果てたその古城を借りたいと申し出た者が現れたのである。
やってきたのは、2人の男と3人の女。
城はそれまで、ルトマイア公爵の所有物――とはいえ彼はこのいわくつきの城に近づこうとはせず完全に放置していたが――となっており、申し出の際には公爵から指示を受けた家臣ブレナン・ジョンストン子爵が間に入り対応した。つまりが彼が手続きのために数度会ったのみで、他の誰もその姿を目にしていない。
城に棲まう者は伯爵という高貴な身分であり、貴族間の諍いに巻き込まれドラド大公国から亡命しルトマイア公爵の庇護を求めてこの地にやって来たらしい……彼の出自に関しては社交界でそうささやかれており、なにかと噂の的であるらしいが、どこにも顔を見せることなく城に籠りきりのため誰一人として真実を知らなかった。
長らく放置されていた古城は、彼らが入城するまでに最低限の修繕を終えていたものの、伸び放題の植物が占拠した庭園はひどく荒れ果てていた。それが今や、枯れていた噴水には清らかな水がきらめき、樹木やバラ園は適切に管理されいつも美しく保たれている。彼は日々、人目を避けつつ敷地内の手入れをしながら静かに暮らしているようだ。
謎多き人物ではあるが、大領主であるルトマイア公爵と対立するわけでもない。よからぬことを画策している気配は感じられないため、無害な隣人だと最初は誰もが思っていた。だが今やその印象は一転し、不吉な噂が囁かれている。
初めは一部の子どもたちが騒いでいただけだったとエミリアは記憶している。古城には昔から幽霊が出ると噂されており、悪さをすると連れて行かれると幼子らは恐れていたようだ。
その古城に人が住むようになったことで子どもの関心は否応なしに高まった。幽霊などいないのでは?まるで家族のように仲良く暮らしていたりして……いや、すでに呪われ死んでいるのかもしれない……。彼らは口々に噂した。
そんな中、数人の少年たちが親の目を盗んで集まり古城探検を企んだ。
草木も寝静まる深夜。鉄門は当然、固く施錠されている。身軽な彼らは石塀をよじ登り、庭園に入った。
だが、それだけしかできなかった。彼ら曰く「化け物がいた」そうで、城の大扉の前にすら辿り着けず早々に逃げ帰ってきたらしい。
侵入に成功した瞬間、頭上から笑い声が聞こえて少年たちは天を振り仰いだ。そのとき、バルコニーの手摺りを飾る石像の頭部にすらと立ち、金色の長い髪を風になびかせながらこちらを見下ろしている女を目にしたのだという。
震えながら彼らは訴えた。月明かりに照らされた瞳が白銀に光り自分たちを見つめていたと。
しかし大人たちはまともにそれを信じはしなかった。――犠牲者が出るまでは。




