40話
年間を通して温度も湿度も一定に保たれているロサ・リタ修道院の地下には、貯蔵庫やワインセラー、チーズ熟成室がある。
貯蔵庫には穀物や塩、ハーブ、スパイスなどの他に、修道院で製造したバター、ジャム、水薬や散薬などが大量に保管されていた。これらは院直営の薬局や食料雑貨店で販売されるほか、救貧院や診療所に併設された療養施設などに無償で提供される。余剰分は教会の物資となるがそれも微々たるもので、汗水垂らして製造している修道者たちの口にはほとんど入らなかった。
地下施設は管理担当者のみならず修道者ならば誰もが自由に立ち入りすることを許されている。一方、この緩さに反し厳重に管理されているのが聖堂の真下に存在する地下牢だ。
牢獄であることを知っているのは今や司祭を始めとした聖職者と各施設長、そしてクレア・オルビーの処遇を知る者のみである。彼らは修道者や教会附属学校の生徒たちに対し「かつて薬草の保管庫として使用されていた場所である」と虚偽の説明をしていた。聖ラディウス教会の負の歴史が外に広く伝わることを避けるためだ。
地下牢についての詳しい資料は残っておらず、教会図書館の蔵書からも削除されている。この血塗られた遺産の詳細は歴代の司祭のあいだでのみ語り継がれてきた。
戒律を犯した修道者を投獄するための牢は全部で12。今よりも戒律が厳しかった数百年前は入牢者が後を絶たず、ひとつの狭い空間に複数人収容することもあった。5、6人同時に拘禁されたときなどは過密状態となり横たわることができず、座ったまま眠ったという。
そんな中、彼らをもっとも悩ませたのは衛生問題だ。片手以上の人数が集まればそれだけ“出る”ものも多く、小さな排泄用の壺はすぐに一杯になってしまう。汚物を処分してもらえるのは3日に一度であったため壺から溢れた糞尿のせいで床は汚れ常に悪臭が漂い、牢内は極めて不衛生な状態であった。精神的にも肉体的にも限界に達し、正気を失って自害する者もいた。
ボウルに入った手洗い用の水もすぐに黒く濁ってしまい、彼らは飲み水の一部で手や顔を洗い、鞭打ちによってできた傷口を清めた。過酷な牢獄生活を送りながら、自戒のために己が身を鞭で痛めつけ、聖典を朗読し……修道者らは犯した罪を悔い我欲を捨てる。死せず生き残った者はもれなく従順な神のしもべとなり光の世界へ戻るのだ。
彼ら彼女らの排泄物と、鞭打ちにより飛び散った血で黒く染まったこの牢獄に、ネルフィナ救貧院の少女クレア・オルビーは幽閉されている。
先日、治安判事長であるジョルジュ・ベルティから民衆に向けて「殺人事件を起こしたクレア・オルビーはラムレイズ島の監房に送られた」との声明があった。これを聞いた町の連中はみな安堵して胸を撫で下ろしたことだろう。ベルティが事件の終結を宣言するなか表情を硬くしていたのは、聖ラディウス教会のトマス神父、治安官マクドウェルとカールソン、ジャーメイン城の売買契約の際に伯爵とやり取りをしたというだけで巻き込まれた憐れなジョンストン……そしてネルフィナ救貧院の院長マチルダだけだ。
声明が出された翌日の深夜、トマス神父はひとりで地下牢に下りた。
ここに入るための扉の鍵は神父とイアン・マニエ修道院長が所持しているが、現在、錠は秘密裡に付け替えられており、マニエ修道院長が持つ鍵では開錠できなくなっている。彼にクレア・オルビーの存在を発見されることはない……そう思いつつも、神父は怯えていた。自分以外の靴音がするような気がして何度も後ろを振り返りながら、壁から染み出す水で湿った通路を足早に歩いていく。
周囲を警戒しながら、クレアが収監されている牢の前まで来た。鉄格子の向こう、少女は人形のごとくぐったりと横たわったまま動かない。骨が浮き出るほどに痩せた両手足は鎖で拘束され、口枷も噛まされたままだ。艶をなくした栗色の髪は垢と血に汚れた頬に絡みつき、目元は布で覆われている。
収容されてから一週間以上が経過したが、そのあいだ一度も目を覚まさず、少女は眠り続けていた。もちろん飲まず食わずだ。水の一滴すら口にしていないことを心配したジョンストンが動物に使用する給餌用シリンジでミルクを与えようとするも失敗している。
食事も水分も受け付けず、便どころか尿の排泄もない。色を失った肌は氷のように冷たく死人同然に見えるものの、少女の薄い胸は呼吸に合わせゆっくりと上下し続けていた。
神父は壁掛けの燭台に火を灯し、淡く繊細な光の中で牢の施錠を解く。
「クレア」
呼び掛けながら近づくも、相変わらず反応はない。
彼は、横たわるクレアの周囲に聖なる紋様を描き、等間隔で蝋燭を置きながら祈祷文を口の中でつぶやく。塩と聖水を撒いたあと彼女の体の上で真鍮製のベルを5度鳴らし、牢を出た。
すると、微かなノックの音が遠くから響いてくる。トマス神父は足音を忍ばせて扉に歩み寄ると、覗き窓を開けた。立っていたのはランドルフ・グラーツ博士である。
「おひとりですか?」
尋ねつつ招き入れると、扉の向こうを慎重に窺い見る。博士はその背に向かい軽やかな声で答えた。
「ジョンストン君にここまで案内してもらいました」
「彼はどこへ……」
「さあ?」
グラーツ博士は踵を返すと、散歩でも楽しんでいるかのようにゆったりとした足取りで暗がりを進んでいく。




