37話
一方その頃エミリアは、ジャーメイン城へと続く緩い坂道を登っていた。途中、今まで耳にしたこともない不気味な咆哮が聞こえ足を止めたが、まさかその声がメリッサ・カラベのものとは思いもせず……再び歩みを進める。
古城に面したニムロット通りのガス灯に火は入っておらず、辺りは黒々とした闇に満たされていた。ところどころひび割れ陥没している石畳を用心深く歩きながら鉄製の正門前まで来る。
暗闇に沈むジャーメイン城は、昼間見るよりも陰鬱で禍々しい。濃紺の夜空に無数の小さな閃きがよぎり、エミリアは目を凝らした。蝙蝠だ。
ぶるりとひとつ身を震わせ、マントの襟元を掻き合わせながら鉄門に近づく。見れば、施錠されていないばかりか少し開いている。恐る恐る押し開けて敷地内に入り、石造りの小さな橋を渡った。
「ようこそ」
突如として頭上から降ってきた女の声にエミリアは驚き足を止める。天を仰ぐと、バルコニーの手摺の上に黒い大きな塊が座している。黄金の目と尖ったふたつの耳があるのを見て、思わず叫びそうになった。
犬だ。あんな不安定な場所に犬がいる。
落ちたら大惨事だ。城の人間に知らせなければと大扉に駆け寄ったそのとき、低い笑い声が微かに聞こえた。動きを止めたエミリアははっと息を呑み、辺りを見回す。
「ここです」
背後の声にびくりと身を強張らせ振り向くと、いつからいたのだろう……リュシアン・アルベスクの妹らしい赤毛の女が表情なく立っている。靴音を響かせ、彼女はゆっくりと近づいて来た。エミリアは慌てた様子で上階を指差す。
「犬がバルコニーの手摺に」
「あれはトニトルス。犬ではなく狼です。凶暴ですのでお気をつけくださいませ」
狼と聞いて、エミリアは驚きに目を瞠った。もう一度バルコニーの方を振り仰ぐと、塊は大きく伸び上がり、月を背にますます黒く染まる。それはまばたきのあいだに視界から消え、足音も立てず彼女の目の前に降り立った。
黄金に煌めく双眸。体高は優に1メートルを超えており――筋骨逞しく、堂々たる風格だ。
黒狼トニトルスは冷たい光を宿した瞳をぎらつかせながら、深夜の来訪者のまわりをくるりと一周した。小さな白い顔をまじまじと眺め、スカートに鼻を押しつけて匂いを嗅いでいる。そのあいだエミリアは目を見開いたまま息を詰め、じっと固まっていた。黒く美しい毛並みの巨大な狼は彼女を圧倒し、声を奪ってしまったようだ。
「お客様を驚かせてはいけないわ。おいで、トニトルス」
呼ばれた黒狼は首を回らせ、つまらなそうに鼻を鳴らす。歩き出したファヴィラの後ろについた彼は、ふいにエミリアに振り返った。
そして、先ほどまでいたバルコニーの方に視線を向ける。何かの合図のように思えて、エミリアは門の上にある大窓を見上げた。視線が、硝子の向こうに引き寄せられる。
そのとき――確かに人影が動いた。
彼女と同じく窓を見上げていた黒狼は短く低い唸り声を上げると、太い尻尾を揺らしながら再び歩き出す。
ファヴィラは固く閉ざされた大扉を開け放ち、静かな眼差しでエミリアを見つめた。
「どうぞこちらへ」
夜更けの城内に灯はなく、窓から差し込む月明かりが石造りの無機質な空間を照らしている。調度品はほとんど置かれておらず、生活感はまるでない。
靴のかかとが当たるたび、冷え冷えとした大理石の床が心地よい音を立てる。ゆっくりと歩みを進めながらフードを取ったエミリアはファヴィラの背に問うた。
「アルベスク様のお許しはいただけたのでしょうか」
「いいえ……私の独断ですので。しかし知らないということはありませんから、ご安心ください」
そうと聞くなり、エミリアの顔に不安がよぎる。
彼女の心境を知ってか知らずか、ファヴィラとトニトルスは正面の大階段を軽やかな足取りでのぼっていく。
ホール中央で立ち止まっている彼女に気づいたファヴィラは階段半ばで振り向いて、
「こちらです。さあ」
抑揚の少ない、落ち着いた声で促す。
城主の許しを得ていないと知り逡巡しているのか、エミリアは動かない。するとトニトルスが駆け降りてきて、その背中を鼻先で軽く突いた。そのままぐいぐい押され急かされて、彼女は困惑し躊躇いながらも階段を上っていく。
靴音と爪音が静謐な空間に響く。美しく磨かれた白い廊下は庭に面した窓からの微かな光を弾き返し、彼らの顔を青く染めていた。
廊下の突き当りまできて、ファヴィラと黒狼は立ち止まった。
「兄の部屋です」
緻密な草花の彫刻が施された扉を見つめ、エミリアは息を呑む。
「どうぞお入りください」
「――しかし」
後ずさるエミリアの背を鼻の先で再度つついて、トニトルスが促す。ファヴィラは無表情のまま扉に視線をやり、その奥を見透かそうとするかのように目を細めながら言った。
「兄に、あなた様を厭う理由などありません」
「ではどうしてあんな伝言をあなたに……」
「それは兄の方から直接お聞きになってください」
一礼し、ファヴィラが後ろに下がった。
辺りが沈黙に閉ざされるなかエミリアは、眼前に立ちはだかる扉と対峙する。
この向こうにリュシアン・アルベスクがいる……彼女は緊張に汗ばむ手をかざし、力を込めてノックした。
返事はない。
「かまわず、ご入室くださいませ」
ファヴィラが機械的な声で言う。エミリアはひとつ大きく深呼吸すると、取っ手を掴んだ。そしてついに意を決して重い扉を開け放った。




