35話
正門から出た彼女がチャペル・ロードを進み、大通りに辿り着いたのとほぼ同時刻。
一台の古い馬車が聖ラディウス教会の裏口前に停まった。周囲には街灯もなく、鬱蒼と生い茂る木々が吹き荒ぶ風の中でさざめいている。
馬車の到着と同時に治安判事長ジョルジュ・ベルティが教会の敷地内から出てきた。手に提げたランタンを翳しながら馬車に近づき、素早く扉を開く。
突風で枯葉や砂塵が巻き上がる。扉を開け放った彼が一歩下がると、よく磨かれたブーツが馬車の中から伸びステップを軋ませた。
背を丸め降りてきたのは革製のガウンコートを身にまとった壮年の男だ。鍔の広い帽子の下で光る榛色の目は、獲物を狙う獣のような獰猛さを感じさせる。
ベルティは恭しく一礼すると、彼の足元をランタンで照らしながら歩き出した。
ふたりが向かったのは教会の裏手に広がる「慈雨の森」内にある墓園だ。
人の行き来が少ないせいか、墓園までの道は春の植物に浸食されている。咲き誇る花や長く伸びた草を踏み分けながら歩いていくと、錠が外され半開きになっている園門が現れた。彼らは躊躇う様子もなく門をくぐり、注意深く辺りを見渡した。死者の眠りを見守る聖人たちの石像と、規則正しく並んだ墓石が深い夜の只中に沈黙している。
樹林を背景にして建つ巨大な霊廟の前に灯りが揺れているのを確認したベルティは黙ってその方を指差し、男を光のもとにいざなう。
辿り着いた場所にはふたつの人影があった。聖ラディウス教会の司祭トマス、そしてヴェストール子爵ブレナン・ジョンストンである。青白い顔をした彼らはランタンとシャベルを手に持ち、死者のように生気なく立ち尽くしている。
「お連れしました」
ベルティの言葉に、トマス神父は微かに頷く。土とカビの臭いを含んだ風が彼らの髪を搔き乱し、強かに頬を打つ。
「司祭が墓を暴くことに加担するとは世も末ですな」
黒い影のような男はここにきて初めて声を発した。彼の左の胸元を飾る小さな銀のブローチがランタンの灯りを受けてきらめく。そこに彫られているのは翼を広げた梟――教皇庁のシンボルである。
男は緩慢な足取りでトマス神父に近づくと、帽子を取った。
淡い光の中に浮かび上がるその貌……
神経質そうな男だと神父は思った。手足ばかりがひょろりと長い華奢な体。白髪まじりの豊かな髪は美しく手入れされ一見若々しいが、色艶のない肌には加齢による皺が深く刻まれている。
「ランドルフ・グラーツ博士です」
彼の背に控えたベルティが言う。
レイモンド公爵が遣わしたこの男は、邪祓いと呼ばれる儀式を執り行い何人もの魂を救済してきた祈祓師である。
なぜ“博士”の敬称が付いているのかといえば――彼は神の力を借り邪を滅することを使命とする神命使徒の会に属していながら「神の力が及ばぬ場合もある」という独自の考えを持ち、医学的・科学的な面と宗教的な面から悪魔や魔物といったものの正体を研究しているからだ。
祈祓師らが彼を博士と呼ぶとき、そこには多少の揶揄が含まれている。悪魔憑きに対し、彼は祈祷するより先に精神疾患を疑い医学的に分析しようとするため、仲間内では変わり者として扱われていた。聖職者とも思えない際どい発言をすることもあるため教皇庁の上層部も手を焼いているようだが、実力があり成果を上げていることから破門には至らず重用されている。
奇人変人扱いされながらも周囲の期待に答え続け結果を出し、盤石の地位を築き上げてきた博士であったが――彼は今、教皇庁に対し裏切り行為を働いている。仲間の祈祓師たちも、長年行動を共にしているレイモンド公ですらそのことに気づいていない。
祈祓師として数多くの問題に対応してきた博士は「祈りだけでは邪を祓うことはできない」ととっくの昔に結論付けており、神に祈ればすべて解決できるという教皇庁の考え方に辟易していた。そんな彼の不満や秘めたる野心を受け止めたのが、魔物の実態を研究する民間組織、エトワール生理学研究所である。思想に共感した博士は秘密裏にこの特殊組織と繋がりを持ち、やがて構成員のひとりとなった。つまり表では教皇庁の祈祓師として任務をこなし、裏では研究所の構成員として暗躍しているのである。
最近は本業よりも裏稼業の方が忙しい。今夜も、祈祓師に伝わる古の儀式を施してほしいと神父に頼まれここにやってきたが、真の目的は研究材料の収集である。
手にしていた鞄を下ろし、博士は事務的に言う。
「さっさと済ませてしまいましょう。死者の領域に長居は無用」
鞄の傍に屈み込み中から木杭とハンマーを取り出すと、ジョンストンに振り向いた。
「ほとんど即死だったと聞きましたが本当ですか?」
「はい……。抱き起こしたときにはもう……亡くなっていました。失血死です」
ふむと頷いた博士は大袈裟に溜息をつき、
「ということはヴァンパイア化する間もなく人のまま死んだか。ああ……実に惜しい。生きていてくれさえすれば完全覚醒する過程を観察できるまたとない機会となったのに」
そう嘆きながら再び鞄の中をさぐると、骨切り鉈を取り出した。研ぎ澄まされた刃がランタンの灯りで不気味に光る。
慣れた様子で鉈を扱う姿を凝視しながら、ジョンストンが額に冷や汗を滲ませ問うた。
「――ヴァンパイア?」
「人や動物の血を吸う魔物ですよ。神父様から事件の詳細を聞きましたが……クレア・オルビーという少女はヴァンパイアと接触し強靭な力と不死の体を手に入れたとみて間違いありません。少女に襲われたこの女も、致命傷を負わず生き延びることができていたならば人の生き血を求める魔物になっていたでしょうな」
博士が肩を揺らして笑うなか、ジョンストンは目の前の棺を見下ろす。先ほど掘り出したばかりのそれは、じっとりと湿った土に汚れている。




