34話
一定の距離を取りながら後を追うと、彼女は以前見かけたときと同じルートで教会を出て行く。かなり気が急いているようだ。周囲を警戒するようなそぶりを見せているが、背後まで確認する余裕はないらしい。そのまま一度も振り向かず、人通りがほとんどない細い道を縫うように進んでいく。
ギルバートは、穏やかな陽光の中を行く小さな背中を執念深く追いかけた。
風を孕みたおやかに揺れる黒いベールとスカート……息を切らせて進みながら彼は、自分がひどく興奮していることに気づいた。
周囲には誰もいない。もうすこし距離を詰めて手を伸ばせば、彼女の腕を掴むことができる。そのまま物陰に引きずり込み、そして……
何度も夢に見た彼女の白い胸元が脳裏をよぎったそのときだ。急に視界が開け、ギルバートは我に返った。緩い坂道を登り切った先を見た彼は、思わず目を剥く。
天を鋭く貫く尖塔――エミリアがまっすぐに向かっていくのは、リュシアン・アルベスクの住むジャーメイン城だ。
正門を避け裏口から出たのは、やはりやましい事情があったからか……ギルバートはエミリアに続いて城に近づくと、大扉についている金のドアノッカーを鳴らす彼女を鉄門の柵越しに遠く見遣った。
彼が鋭い視線を向けるなか、重厚な扉が細く開いた。暗がりから陶器のような白い顔がのぞき、来訪者を見上げる。
ギルバートに気づかないエミリアは、誰にも会わずここに辿り着いたことに安堵しながら、にこやかに言った。
「教会からの見舞い品をお届けにまいりました」
ファヴィラは表情ひとつ変えず、わずかに開けた扉の陰から黙って彼女を見つめている。
「その後、アルベスク様のお身体の具合はいかがですか」
「快方に向かっています」
「それはよかった」
エミリアは心底嬉しそうに顔を輝かせる。そして手にしていたラタンバスケットに目を落とし、差し出しながら言葉を継いだ。
「薬草酒は病後の体の回復にも効果がありますから……どうぞお受け取りください」
「見舞いの品はもう不要だと、兄が」
受け取ろうとはせず、ファヴィラが平坦な声で言う。
エミリアは、そうですかとつぶやきバスケットを引っ込めた。そして一歩下がり目礼すると、
「また日を改めてお伺いします。後ほど書簡をしたためますので」
「兄は……会う気はない、と申しております」
まばたきもせず、唇だけ動かして機械的に告げる。それを聞いた彼女は、
「いつのまにか嫌われてしまっていたようですね」
からりとした声で言うと、眉尻を下げて笑った。
「気丈な御方……」
小さく口にしたファヴィラは扉の隙間から外に顔を突き出し、至近距離で彼女を見つめ上げる。頬に掛かる赤い巻き毛が風に揺れた。
「お変わりないようで安心いたしました」
なんと答えたらよいかわからず、エミリアは困惑の表情を浮かべたまま固まっている。つややかに光る睫毛を伏せたファヴィラは顔をうつむかせ、
「今日の夜更け……必ずいらしてください」
「え……?」
「兄は太陽よりも月を好みます」
そう言い残し、彼女は重い扉を閉めた。
やり取りするふたりの様子をじっと観察していたギルバートは、エミリアがこちらに歩んでくるのを見て素早く門から離れる。
曲がり角に隠れた彼は、壁に張りついて息を潜めながら片頬を上げた。何を話しているかまではわからなかったが、貢物を渡そうとしていたところを見るとエミリアはどうやらこの城の者との繋がりを作ろうとしているらしい。トマス神父から禁じられているにもかかわらず。
リュシアン・アルベスクが城に居座っているせいでケンプベルの住民の怒りや不満はかつてないほど高まっている。悪魔と呼ばれ敵視されている男と接触し距離を詰めていたということが公になれば、エミリアは背教者と見做されあらゆる方面から糾弾されることになるだろう。
鉄門を閉め道を歩いてきたエミリアが、こちらに気づきもせず通り過ぎる。その横顔は哀しみに満ち塞ぎ込んでいるように見える。快活で自信に溢れた、いつもの彼女ではなかった。
後ろ姿を道の向こうに見送ったギルバートは、聳える古城を振り仰ぐ。そして日中にもかかわらず鎧戸が閉ざされたままの窓を睨み据え、不敵な笑みを唇に刻んだ。
夜空に散る数多の星々が静かにまたたく真夜中。
ベッドの中で目を開いたエミリアは、ゆっくりと上体を起こし窓の外を覗き見た。人の気配のないことを確認した彼女は室内に視線を転じ、じっと耳を澄ませる。辺りは静まり返り物音ひとつ聞こえない。
冷たい床に足を下ろした彼女は寝間着を脱ぎ捨て、唯一持っているダークグレーの外出着に着替える。黒いマントを羽織りつつ大窓に近づくと、音をたてぬよう慎重に開いた。
エミリアの部屋は回廊に囲まれた中庭に面しており、そこを横切るとすぐ教会の裏口に辿り着くことができる。周囲を警戒しながら芝に降り立ちフードを被った彼女は、夜闇を裂いて駆け出した。
“太陽よりも月を好む”その言葉を何度も反芻しながら、煌々と輝く月を見上げる。
エミリアは、リュシアン・アルベスクの存在が日に日に自分の中で色濃くなっていくことに戸惑いを覚えていた。信者席に座っていたその姿。凛と咲く一輪の花のように可憐な男……彼に一目会いたいと、心が狂おしく叫んでいる。
切なく締めつけられる胸を押さえつつ修道院の建物に沿って進み、裏口へ続く最後の曲がり角を曲がろうとしたそのときだ。濃密な闇の中に黒くうごめくものが目に入り、彼女は慌てて立ち止まった。
目を凝らした瞬間、オレンジ色の小さな点が現れゆらりと揺れる。ランタンの光だと気づいたエミリアは咄嗟に壁に張りつき身を隠した。
額に嫌な汗が浮く。徐々に鼓動が早まるのを感じながら、曲がり角から顔を出し明かりの方を覗き見た。しかしそうしたときにはすでに、その人影も光も、きれいに消えている。
教会の敷地内で誰かに見つかったら厄介なことになる……外部からの侵入者と勘違いされて大騒ぎになるかもしれない。しかたなくエミリアは元来た道を戻ることにした。裏の戸口が使えないとなれば正門から出ていくルートしかないが、その行き方を選ぶとどうしてもナックバレー大通りを横切らねばならない。時刻は深夜だ、町に住む者たちの多くはベッドに入っていることだろう。だが、浮浪者や酔っ払いがうろついている可能性は十分にある。この格好をしていれば修道女とは思われまいが――とにかく人目につかぬことを祈るしかない。
このようなリスクを冒してまで城へ行こうとしている自分の愚かさを自覚しながらも、エミリアは暗闇の中を走り続けた。
会えると決まったわけではない。無駄足に終わるかもしれない。しかし可能性があるならば、それに賭けてみたいという思いがある。心の奥の奥から泉のように滾々と湧き出てくる熱情がエミリアの理性を壊し、かの男のもとへ向かわせていた。




