33話
まず最初に出現した症状は睡眠障害であった。徐々にではなくある日突然、一晩中眠らず夜の町を徘徊するようになったのである。そんな生活を続けていれば日中うたたねしてしまいそうなものだがしかし、昼間も一睡もしない。続いて、食事をまったく摂ろうとせず、飲み物すら口にしようとしなくなった。職員たちが体の調子が悪いのかと問うても、あっけらかんとした調子で「どこも悪くない」と答える。確かに顔色もよく生き生きとしている。
子どもたちの母親代わりとして強い責任感を持っていたメリッサは、クレアを注意深く観察した。元気なのは今だけで、ある日突然倒れてしまうのではないかと心配したのだ。
しかしそれは杞憂に終わる。飲まず食わず眠らずという生活をしているというのに衰弱することもなく、それどころかクレアはますます快活になっていった。元来引っ込み思案で気が弱く、救貧院で共に暮らす同年代の子どもたちに泣かされることもしょっちゅうだったが、まるで人が変わったかのように積極的になり、時には嫌がらせをしてくる少年を返り討ちにすることさえあった。
クレアの暴力性は増していき、彼女自身も怒りの感情を制御できていない様子であった。頭に血が上ると大暴れし、大人ひとりではとうてい抑え込むことができない。やがて他者を傷つけるだけでなく自傷行為までするようになり、部屋の壁に自分の血で不気味な絵を描いてはルームメイトを怯えさせていた。
クレアの変貌ぶりを危惧したメリッサ・カラベから初めて相談を受けたとき、マチルダは特に問題視しなかったという。眠らない、食べないなどの症状は一時的なものであり、周りを敵視し暴力的になるのも多感な時期の少年少女によく見られる成長過程の一環であろうと。
しかしそれは見当違いの考えだった。クレアはかつての純真さを失い、世にも恐ろしい怪物と化していたのだ。
心労のためかメリッサが床に臥し、マチルダがそのあいだ少女の面倒を見ることなった。一週間ほどであったが、悪夢のような毎日だったとマチルダは話す。数々の異常行動のなかでも特に彼女を震えあがらせたのは、散歩に行ってくると言って出掛けたクレアが口の周りや服を血塗れにして帰ってきたことである。理由を聞いたがただニタニタ笑っているのみで、明確な答えは返ってこなかった。
メリッサが快復し再び子どもたちの世話係に戻ると、クレアのこれまでの奇行は嘘のように落ち着いたという。そこからは平穏な日々が続いていたが……悲劇は起こってしまった。
無惨に殺害されたメリッサ・カラベの無念を晴らそうと、マチルダは少女に残酷な決断を下すことを決めた。
「悪魔は子どもの皮を被って、私たちを油断させようとしてるんだ。メリッサの死を悼んでいるというのなら、かわいそうだなんていう甘い考えは捨ててちょうだい」
彼女は滂沱の涙を流しながら訴える。
「あれを閉じ込めて。もう二度と太陽の下に出さないで」
場の空気が変わったのを感じたマクドウェルとカールソンは、異議の声を飲み込んだ。決して納得したわけではない。だが、ここで反論を唱えても場をかき乱すだけだ。
クレアは密かに教会の地下に連れていかれ、マチルダの手で牢に鍵が掛けられた。
椅子に縛り付けられ項垂れているクレアに向かい唾を吐いた彼女は、怒りに顔を強張らせたままつぶやく。
「くたばれクソガキ」
いたいけな少女クレア・オルビーが、実の母親のように慕っていたメリッサ・カラベを殺害した――新聞でそのことを知ったエミリアは愕然とした。
「あんなに仲がよかったのに」
「悪魔に取り憑かれていたらしいわ」
事件発覚から数日が経った今も、教会内はその話で持ちきりだ。口々に噂する修道者たちを横目に聖堂を出た彼女は、トマス神父が司祭館へ続く回廊を歩いているところを見つけ小走りに駆け寄る。
「神父様」
背中に声を掛けると彼は立ち止まったが、まっすぐ前を見据えたまま振り向かない。
「ネルフィナ救貧院で事件を起こしたクレア・オルビーという少女がどこに収容されているか、ご存知ですか」
先日救貧院を訪れた際、エミリアは耳を疑うような話を聞いた。治安管理局に連行されたはずのクレアの行方がわからなくなっているというのだ。
事件後すぐ、クレアの後見人である孤児担当室長が面会しに行ったがケンプベルの収容所にはいないと言われ、すげなく追い返されたらしい。移送先を教えてほしいと懇願しても知らぬ存ぜぬの一点張りで、まったく取り合ってもらえなかったそうだ。
クレアを連行した治安官たちならば事情を知っているだろうが、顔も名前もわからない。ただ、身柄を引き渡す際にトマス神父がおり、彼らとなにやら話し込んでいたという。
クレアが姿を消したことに、神父が一枚噛んでいるのは間違いない。背を向けたまま黙っている彼に、エミリアは言った。
「どこにいるかご存知でしたら教えていただけませんでしょうか。後見人である救貧院の孤児担当室長が、少女の行方を探しておられるのです」
彼女にとってクレアは小さな友人だ。あの優しく穏やかな子どもが凄惨な殺人事件を起こしただなんてとても信じられない。無実の罪を着せられ、口封じのためにどこかに幽閉されているのかもしれないと思うと、気が気ではなかった。
「クレア・オルビーはしかるべき場所で罪の償いをしています」
「しかるべき場所とはいったい……」
「教えることはできません。クレア・オルビーの身柄については治安管理局が責任を持ちます。室長にはなにも心配することはないとお伝えしなさい」
神父は背を向けたままそう言い放つ。けんもほろろな反応であったが、エミリアはなおも食い下がった。
「なぜクレアの存在を隠すのです。遥か遠い地に移送されたというのなら、私が室長の代わりに参ります。どうか無事を確かめさせてください」
「身の程をわきまえよ!」
鋭い声に遮られ、エミリアは気圧されたようにぐっと息を詰めた。
「この件に深入りすべきではありません。あの少女はもう、あなたの知る愛らしい子どもではない」
肩を落とし、大きく息をつく。ややあって、彼は続けた。
「昔、弟から聞いたことがある……人や獣の血液を糧とし、永遠の時を生きる魔物の逸話を。少女の姿はあまりにも、それに……」
言葉が途切れる。薄い唇を引き結んだ神父は、落ち着きなく体を揺すった。困惑の表情で黙っているエミリアに充血した目を向けると、震える声で言う。
「クレア・オルビーのことはお忘れなさい。シスター・エミリア」
彼女の返事を待たず、トマスは前方に向き直り再び歩みを進める。
「神父様!お待ちを」
懇願するように呼びかけたが、彼は立ち止まることなく、振り向こうともしなかった。その後ろ姿には以前の親しみやすさは微塵も窺えず、意見することを許さないという冷たさだけが感じられる。
エミリアは頬を打たれたような衝撃を受け立ち竦んだ。見開かれた菫色の瞳の中に映る神父の小さな影は、蝋燭の炎のようにゆれながら静かに消えていく。
礼拝を終えると、エミリアは搾りたてのミルクと配給された薬草酒を手にこっそり炊事場に戻り、食べずにおいた自分の朝食分の林檎とビスケットを編んだばかりのラタンバスケットに入れた。布を掛けて中身を隠し大事そうに胸に抱え持つと、忙しなくその場から立ち去る。
足早に出ていくエミリアの後ろ姿を、炊事場の物陰から見ている人物がいる。神の教えを学びながら共に過ごしてきた仲間、ギルバート・デインズだ。
彼は最近のエミリアの行動を密かに監視していた。
自分の分のパンや果物を食べずにこっそりと袖の下に隠すのを何度か見かけ、初めは教会の敷地内で野良猫かなにかの面倒でもみているのかと微笑ましく思っていたがどうやら違う。朝の日課を終えると、重そうなバスケットを抱えて修道院を抜け出し、どこかに消えてしまうのだ。
いったい何をしているのかと怪しんで後をつけたとき、人目を避けるかのように聖堂の裏手に回り込み、ほとんど使われなくなっている小さな戸口から敷地の外に出ていくのを目撃した。それがきっかけで疑惑の眼差しを向けるようになったのである。
今日こそエミリアの行先を突き止める――ギルバートは使命感に満ち満ちた目で廊下を覗き込むと、エミリアの姿が曲がり角に消えるのを見届けてからそっと炊事場を出た。




