31話
「天地を統べる母なる神よ……はぐれた魂の救済が生と死のさだめにしたがい正しく行われますよう……無垢の地よりいでし我ら人の子に慈愛と恩寵を与えたまえ……」
聖ラディウス教会の司祭ハリー・トマスは先ほどから絶え間なく祈りの文言を唱えている。一同の前に現れた彼はいつもの威厳を失い弱々しく、痩せこけた顔には色がない。
聖堂の祭壇前に連れてこられた10歳の少女は血飛沫で汚れた姿のまま、椅子に手足を拘束されている。鋭利な牙が光る口には布が噛まされ、視界は目隠しで封じられていた。意識はないようで、頭を後ろに倒したまま身じろぎもしない。
殺人事件を起こしたこの少女の名はクレア・オルビー。両親を病で亡くし一昨年ネルフィナ救貧院に保護された。殺害された施設職員メリッサ・カラベは献身的に少女の世話をし、惜しみない愛情を注いでいたという。また、クレアも彼女のことを実の母のように慕い、心を許していた。
「凶器は?」
眉間に深いしわを刻んだマクドウェルがジョンストンに尋ねる。
「使用されていません。メリッサ・カラベと共に入所者に食事を配膳していたところ急に暴れ出して、止めに入った職員の男に飛びかかり素手で左耳を引きちぎったそうです。カラベは仲間を助けようと少女に立ち向かいましたが返り討ちに合い、殺害されました。私も現場に居合わせましたが、とにかく、10歳の少女とも思えない力で……大人の男3人がかりでようやく取り押さえたんです。その直後に意識を失いました」
震える声で説明するジョンストンの顔は血の気をなくしており、唇までもが青白く見える。
無理もない――騒ぎを聞き付けいち早く現場に駆け付けた彼の前に現れたのは、人ではなく怪物であったのだ。
獰猛な光を宿す白銀の瞳。クレア・オルビーは狼のように鋭い牙を剥き出し、目にもとまらぬ速さで部屋中のものを破壊しながら暴れまわった。暴挙を止めようと掴みかかってきたメリッサ・カラベを小柄な体からは想像もつかない怪力で振り払うと、敵わないと知って逃げまどう彼女に飛びつき、その命を奪ったのである。
すべてがあっというまの出来事だった。少女は、母のように慕っていた人間をためらいもなく牙で引き裂き、血と肉を喰らった。駆けつけた治安官たちに拘束されたあとも、彼女は口の中に残った肉を咀嚼し続けていた。
「よりにもよってレイモンド様が視察にいらっしゃっているときにこんな惨たらしい事件が起こるとは……」
ジョンストンは深く息を吐き顔をうつむかせる。
「レイモンド公爵はその現場を?」
マクドウェルが尋ねる。
「ええ……。ベルティ殿と私とで救貧院の中をご案内しているとき出くわしたので。レイモンド様はあまりに凄惨な現場に気分を悪くされて宿屋でお休みになられています」
そうか、と短く答えたマクドウェルは神妙な顔で顎鬚を撫でながら、ジョンストンに振り向いた。
「ここまできつく拘束するのは子どもにとって酷だ。せめて目と口の布を外してやれ」
「なりません」
鋭く言い放ったのはトマス神父である。
「クレアは悪いものに取り憑かれています。祈祓師を呼ぶまでこのまま地下牢に」
「牢だって?!まだ10歳の子どもですよ」
「彼女は尊い命を奪った。外見は幼くとも中身は狂暴な悪魔です」
痩せたせいかやけに大きく見える両目をぎょろりと動かし、トマス神父はクレアを見た。そのとき聖堂の扉が開き、身廊に長い影が伸びる。
「この教会の司祭はどこだ」
朗とした声と共に姿を見せたのはレイモンド公パトリック・チェスターである。ヘルマドラ王国きっての上級貴族で王族とも縁のある人物だ。
ジョンストンは驚いたように目を見開き、
「閣下!お体は……」
「案ずるな。司祭と話がしたい」
彼の後ろに治安判事長ジョルジュ・ベルティが黙って続く。ジョンストンの横を通るとき彼はすばやく耳打ちした。
「余計なことを言うでないぞ」
そう言葉を残しすれ違う。ジョンストンは弾かれたようにベルティに振り向いた。そして、温厚な彼にしてはめずらしく鋭い眼差しで彼を睨む。
近づいてくるレイモンド公爵の正面に進み出たトマスは、光のない目に微かな笑みを浮かべた。
「聖ラディウス教会の司祭ハリー・トマスと申します」
冷淡な表情を崩さぬまま公爵は、黒い革の手袋に包まれた手を差し出した。神父は恭しいしぐさで彼の指を取り手の甲にくちづける。
「レイモンド様……お目に掛かれて光栄です。遠路はるばる足をお運びくださり感謝申し上げます」
「堅苦しい挨拶は結構」
少女の前に立ったレイモンド公は表情ひとつ変えぬまま誰にともなく尋ねた。
「いかに処するつもりだ」
その質問に答えたのはマクドウェルだ。
「まだ幼いので裁判所も保護観察処分とするでしょう。その後は治安管理局の監視のもと隔離施設で更生を図るという流れになるかと――」
「君は救貧院で何が起こったかを知らないのかね?それともただの馬鹿か?」
ステッキの先を床に突く鋭い音が響いた。汚物を見るような目でクレアを見つめると、レイモンド公は言葉を続ける。
「これは悪しきものだ。取り除かねばならん」
「取り除く……?」
茫然とした顔で小さく繰り返したジョンストンを、彼は肩越しに見遣る。
「愚鈍な奴め。はっきり言わねばわからぬようだな。殺せということだ」




