2話
「エミリア」
顔を上げたエミリアに人懐こく笑いかけた彼は、興味深そうな表情で幼い彼女に歩み寄る。装飾のないシンプルな黒いフロックコートにフリル付きのブラウス。男はいつも清潔で上等な服を着ていた。
彼の名はオーガスト・キンバリー。
エミリアは、体が大きくすべてを見透かすような目つきをしたこの男のことをどこか恐れていた。隣に腰掛け聖典を覗き込んでくる横顔を緊張したまま見遣っていると、男は白い歯を見せて笑い、流暢なロメネル語で話し掛けてきた。
「聖典を読むとは感心だ」
耳に心地よい穏やかな声である。突然の事に戸惑い言葉が出ず、エミリアはその透き通る薄水色の瞳をただ、じっと見つめた。宝玉のように光る彼女の瞳をまじまじと見つめ返したオーガストは唇をやさしく綻ばせ、
「ああ、なんと美しい菫色だろう。古の気高き血はまだ君の中にしっかりと生きているのだね」
「知っているの?この目の秘密……」
「もちろんさ」
驚くエミリアを前に満足そうに何度も頷いて、更に言葉を継ぐ。
「今年で幾つになるのだったかな?」
「……11歳」
目を逸らしてうつむくと、口の中で小さく答える。
「ご両親はラングベッカー王国の生まれなんだってね」彼は快活な口調で言いながら聖典の文を目でなぞり、「ヘルマドラ語か……ああ、ここはロネ語だね。どちらも読めるのかい」
矢継ぎ早に話す彼に、たじろぎながらもエミリアは答える。
「すこしだけ……」
「素晴らしい」
男は大袈裟に褒めて悪戯っぽく笑う。
今や古語となりほとんど使われなくなったロネ語は、近所の友人から教えてもらった。年上の女性で、エミリアと同じく母親とふたりで暮らしている。父親がゼールラント帝国の考古学者で、その影響を受けた彼女はロネ語に詳しかった。頼み込んですこし教えてもらったが、あまり気乗りはしないようだった。死んだ父親のことを思い出してしまうらしく、それを知ってからエミリアはもう、教えてくれとは言えなかった。
「私もクインレスタを敬愛しているが、君くらいのときは遊びの方に夢中だったよ。こんなにも若いうちから聖典に触れるとはたいしたものだ」
彼はさりげなく辺りを見回すと、声をひそめて尋ねた。
「所属する教派はもう決めているのか?」
胸をつかれたエミリアは、思わず息を呑む。
エミリアに信徒となることを勧めたのは、クインレスタ教の主流のひとつサリージャ正教が統率するミンテル教会の修道女だったが、信者としてあるべき姿や聖典に対する理解および解釈が、自分の考えるものとはわずかに異なるものであった。修道女となることを夢見て数年、結局どの教派にも属せず彼女はただ縋るように、一心に祈る毎日だった。
「どうやらこの辺りはミンテル派が多いようだが」
「教派のことは……よくわかりません。私はただ、神を信じています」
「そうか」
男はにこやかに言って、
「迷いや雑念なく祈りを捧げることで神はより近くなる」
その言葉にエミリアの心臓は大きく鳴った。
「こんど礼拝集会に参加してみないか」
「礼拝集会?」
「ああ。とても簡素なものだが」
すぐには返事できずに黙っていると、男は立ち上がりエミリアに振り向く。
「気負うことはない。次の日曜、聖杯会の信者と一緒に神父の説教を聞くだけさ」
しかしエミリアは集会には行かなかった。ミンテル教会やマセス教会とは聖典の解釈が違うという聖杯会の集いに興味はあったが、薄水色の目をしたその男を警戒していた。
その後、数か月もしただろうか。男はまた家にやってきた。こうして定期的に来るのだ。
オーガストは多額の生活費をイレーネに手渡していた。自分の身になにかあったら頼むと、マテウスから頼まれていると言って。それを聞いたエミリアはありがたく思いつつも、ただの友人だという男に何度も頭を下げ金銭的な援助を受ける母を見て複雑な気持ちでいた。
家にやってくるたび、オーガストは何かとエミリアを気に掛けた。聖典の内容を詳細に教えてくれたり、書を贈ってくれたりと……男の親身な態度に、エミリアは内心戸惑っていた。
それから2年後。13歳のとき、ハルロード学園を取り仕切る修道院長からグレンスピア大陸の帝国ゼールラントにある修道院に入らないかと打診された。意欲があるならば推薦状を書いてくれるという。しかしエミリアはそれを丁重に断る。クインレスタ教への理解が深い国で修道者となり、学び、神の御心にもっと近づきたいと強く望む気持ちはあったが、母をひとり残して島を出ていくことが気がかりだったのだ。
しかし、その話を風の噂で耳にしたイレーネは、推薦状を書いてもらうようエミリアを説得した。自分の心に正直であるべきだと言われてもエミリアは、頑として首を縦に振らなかった。
そんなとき、オーガストが再び家にやってきた。
「こんにちはエミリア。調子はどうだい」
玄関先でばったり会い気さくに話しかけられたが、彼女は顔をそむけて脇を通り過ぎ、庭に出た。献身的で親切な彼に感謝しながらも深入りすることは避けていた。出会いから3年経ってもやはりエミリアは、彼のことを恐れているのだった。
オーガストの大きな足が庭の芝を踏みしめる音。穏やかな声が背中から追いかけてくる。
「今日は君に話があって来たんだ」
「また今度にして……。私、忙しいの」
「海外で神学を学ぶ気があるのか?」
その言葉に驚いて歩みを止めた。
なぜそれを……動揺するエミリアに、彼は続ける。
「母君から聞いたよ。島を出て、もっと広い世界で学びたがっていると。彼女は、私に君のことを任せたいとおっしゃられている」
自分の心に正直であれという母の言葉を思い出し胸を苦しく詰まらせながら、背後でゆったりと構えている男に振り向く。そのまま石像のように固まっている彼女に微笑んで、オーガストは薄い唇を開いた。
「クインレスタ教がほとんど浸透していないこの島で学べることは限られている。君にその気があるならば力を貸そう」
「……でも」
「決して悪いようにはしないから安心したまえ。教派にこだわりがないなら、ヘルマドラ王国ケンプベルにあるロサ・リタ修道院の院長に紹介状を書いてあげよう。ここは聖杯会の中で最も厳格な修道院だ。君のような敬虔な信徒は歓迎されるよ」
エミリアはますます警戒した。何か裏があるのではないかと。その胸の裡を読んだかのように、彼は言った。
「私を恐れるな、エミリア。貧しい者や助けを必要とする者に奉仕すること……それが神の教えだ」
「金持ちの道楽と神の教えを一緒にしないで」
「金を持つ者の奉仕はすべて悪か?“金銭を愛すること”があらゆる悪の根源……神は富自体を悪いものとはしていない」
エミリアはきつく眉根を寄せ、唇を噛んだ。男は彼女をまっすぐに見つめたまま、薄水色の目を細める。
「私は、富を天に積む。すべては君次第だ」
返事ができないエミリアを置いて、彼は家の中に消えた。そして、母に会って生活費を手渡すと、すぐに帰っていった。




