27話
さらなる雷雨を呼ぶ狼の遠吠えを聞きながら、リュシアンは枕に頬を埋め目を閉じていた。
なにもかもを忘れ深く眠ってしまいたかったが、眠気は一向に訪れない。まぶたの裏に映るのは聖ラディウス教会の聖堂で目にした懐かしい面影。金の刺繍の入った祭服を身につけた、愛しいマリアンヌと瓜二つの女……
暗闇に生きる者にとって、聖なる存在がまとう光は毒と同じだ。またたくまに死に至らしめる猛毒ではないが、浄化されることによって少しずつ魔力を失い最終的には滅びてしまう。不老不死のヴァンパイアとて完全に浄化されてしまったらひとたまりもない。相当の痛手を負うことになるだろう。
天地を統べる神から光の加護を得た修道者と、死と悪を司る地獄王の寵愛を受ける魔物。これまでもふたりの愛はすれ違い続けたが、今世ではついに敵同士になってしまった。
聖霊大祭に参列した日――やりきれない思いを抱えたまま聖堂を離れ、残酷な運命に対する怨恨をつのらせたリュシアンは、ウングラを従えケンプベルの隣村ラナデルを襲った。
体の奥から込み上げる暴力性に任せ、男、女、子ども……見境なく吸血したことで魔力も活力も漲っている。今ならばもういちど聖ラディウス教会に侵入し、あの修道女を簡単に攫ってくることができるだろう。
しかしリュシアンはいつまでもベッドから起き上がろうとしない。血の残り香のする体を胎児のように丸め、じっと横たわっている。
ファヴィラは言った。マリアンヌと自分の魂は固く結びついていると。何度転生を繰り返してもその結びつきはほどけないと……
その言葉通り、初めて出会ったときも、そして転生後もふたりは互いに惹かれ合い愛を交わし合った。だが、幸せにはなれなかった。命に限りのある人間と不老不死の魔物。その現実はふたりの決定的な溝となったのだ。
リュシアンはマリアンヌの魂を宿す女と共に、永遠を生きたいと願っていた。しかしどの時代の彼女もそれを望んではくれなかった。不老不死となることを拒否し、老いて死んでしまう。
彼を悲しませたのは拒絶と死ばかりではない。三度目の生まれ変わりであるジュディスとはひどい別れ方をした。彼女は、彼がヴァンパイアと知るなり罵詈雑言を浴びせかけ去っていったのだ。正体を明かしたとたん化け物と罵られたときの絶望感……それをリュシアンは、400年経った今も忘れられないでいる。
愛する者との別れ、拒絶され罵られた痛みはリュシアンの心を荒ませていった。かつては献身的で、裏表のない朗らかな性格であったが、今は打算的な人付き合いしかせず、社交辞令で笑うことはあっても私生活では滅多に笑顔を見せない。常に暗然たる気持ちに支配されている。
そんな彼の凍える胸にあたたかな火を灯したのは、人間だった頃のように生きていけるかもしれないという可能性である。
配下のイグニスがリュシアンに助言した、人間だった頃の自分を取り戻すための術。しかしこれを実行するという決断はヴァンパイアにとって容易ではない。その方法というのが「人の血を飲まぬこと」であるからだ。
およそ800年前に契約を結んだイグニスは数千年ものあいだ生き続けてきた火の精霊である。叡智の権化はこれまで様々な知識をリュシアンに伝授してきた。
しかしファヴィラもトニトルスもこの火の言動を信じてはいない。虚言に惑わされるなと、ふたりは何度も主を諫めた。しかしリュシアンは彼らの警告を聞き入れず、もう二度と愛する者に「化け物」と拒絶されたくないという一心で人の血を絶つ覚悟を決め、農村レオラトでの吸血を最後にするとした。
だが運命は彼の決意を嘲笑う。
再誕を待ち続けること400年。長く孤独な夜を越えてついに目の前に現れた愛しい女は、自分と相反する存在だった。これでは会って言葉を交わすことも難しい。それどころか、彼女の人生を陰から見守ることすらできない……一介の信徒ではなく、神の家で暮らす修道女として転生したことを確認した瞬間、胸底で淡く燃えていた希望は灰となってしまった。
冷たく残酷な現実がリュシアンを打ちのめした。聖と邪、清と穢……真逆の世界に生きる彼女を見つめる彼の目には、運命に対する恨みとマリアンヌへの愛、そして悲哀が滲んでいた。
希望を失った彼は、魔力を欲した。消耗した力を取り戻し、再び教会に向かわねばならないと思った。
レオラトでの決意を反故にしラナデルの地に降り立ったとき彼は、この先に続く孤独な年月のことを考えた。そして、耐えられるかどうか自問しながら、人々を襲った。答えは出なかった。彼の頭の中にはひとつの考えのみが連続して回り続けていた。
(今世を共に過ごすならやはり神の手の中から攫ってくるしかない。彼女は神を恋しがって泣くだろう。逃げ出さないよう檻に閉じ込めておかなければ……)
己の冷静な声を聞きながら、逃げ惑う憐れな村人を掴まえる。喉元にかぶりつき、血を飲み干し、捨てる。淡々とそれを繰り返す。ただ虚しい気持ちばかりがあった。心が、体温を失った自分の手足よりも冷え切っている。
ラナデルを出てすぐ聖ラディウス教会の正門前まで行ったが、リュシアンは敷地内に一歩も侵入することなく城へと戻った。手も顔も服も血塗れであることに気づき、我に返ったのだった。頭の中で回転し続けていた自分の声は鳴り止んでいた。
そうしていま、彼はひとり寝台に身を横たえ、口の中に残る人の血の味を感じている。
(マリアンヌ……)
彼女への想いに押し潰されそうになりながら、聖堂で見た姿を思い描いた。
(この城に攫い……過去に起こったことすべてを打ち明ければ、愛してくれるだろうか。檻になど閉じ込めなくとも逃げず、傍にいてくれるだろうか)
浮かんできた自問に対し、彼は即座に否定した。
かつての同胞の血を必要としなくなり人間に近づいたとしても、生と死の循環から外れた不老不死の魔物には違いない。きっと、神に仕える者として生まれ変わった彼女がこの忌まわしい正体を知ったら、ジュディスのように拒絶し、罵り、怒りをぶつけてくることだろう。
あんな仕打ちを二度も受けるのは耐え難い……雨音を聞きながら、彼はいつまでも訪れない眠りをひたすら待った。




