26話
見下ろす町は雷雨に煙っている。
トニトルスは古城の屋根に座っていた。またたく稲光に美しく照らし出されるその漆黒の毛皮は、打ちつける雨でしとどに濡れている。
彼は思いのままに雷雲を呼ぶことができた。失意の底にいるリュシアンを雨粒のベールで包み隠し、無遠慮に立ち入ってこようとする者たちから守っているのだ。
この城を訪ねてくるのは人間だけではない。地獄から這い出てきた多くの魔物たちが夜な夜な窓の外をうろつき、リュシアンが心身共に衰弱するのを待っていた。取り憑いて魔力を吸う妖魔の類は特に厄介だが、より面倒なのは同じ種族であるヴァンパイアだ。彼らはリュシアンに異様なまでの敵愾心を抱いており、各地を転々とする彼を追いかけまわしては返り討ちにあっている。
危険と隣り合わせの生活を送っているリュシアンは、本当の意味での休息を取ったことがない。だが、雨の結界に包まれ外界から遮断されているあいだだけは警戒を解き心を休めることができる。それをトニトルスはよくわかっていた。
激しく降り注ぐ雨をその身に受けながら彼は、リュシアンの昏い瞳を思い起こす。
マリアンヌがいったい何者に生まれ変わったのか、それを確かめるため聖ラディウス教会に出掛けたあの日――彼は城に戻らなかった。そして翌朝の日の出前、ひどく暗い表情で帰ってきたのである。
彼のブラウスは赤黒く染まり、唇から顎先にかけて乾いた血で汚れていた。その姿を見たファヴィラはめずらしく慌てた様子で事情を訊ねていたが、リュシアンは一言もしゃべらぬまま寝室に籠ってしまった。
それを我関せずといった様子で見ていたトニトルスだったが、夕陽が沈む頃になると城の屋根に登り、それからずっと絶やすことなく雨を呼んでいる。彼はリュシアンとはもう800年近くの付き合いである。いちど塞ぎ込むと長引くことを知っている。
天を仰ぎ心地よく目を閉じていると、屋根に近いバルコニーに影がゆらりと現れた。
「雨は嫌い」
艶やかな黒のマントを羽織りながら出てきたのはファヴィラだ。
「だったら部屋でおねんねしてな、お嬢ちゃん」
黄金の光が向けられる。その視線に応えることもなく、彼女は手摺りに近寄ると眼下に広がる町並みを見遣った。
「お兄さまはなぜ、人間だったころの生活に未練があるのかしら」
「考えるだけ無駄だ。オレたちには到底わからない」
「それはどういう意味?」
「ああ?」
心底嫌そうな顔で睨めば、フードの下で光るエメラルドグリーンの目が見つめ上げてくる。
「魔物として生まれた者は、元人間のお兄さまのように複雑な感情を持たないからわからないということ?それとも、ただ単に私たちが冷たい性格をしているからわからないということ?」
「さあな」
「あなたは人間と共に暮らしていたこともあったんでしょう?ねえ……人の生活というのは、そんなに良いもの?太陽の明るい光に満ちた場所で暮らすことは、夜の世界を思いのままに操るよりも愉快なことなの?」
「おまえはたまにガキみたいなことを言うよな」
トニトルスは鼻の付け根に皺を寄せ牙を剥き出す。そして体を震わせ、毛皮を濡らす雨粒を払いながら言った。
「あいつはまだ寝込んでるのか」
「扉を叩く者がいたら、病で臥せっていると伝えるよう命じられたわ。誰ともお会いになりたくないらしいの。これまでになく、ひどく落ち込んでらっしゃる……。どうしたらよいのかしら」
「放っておけよ。詳しいことは知らないが、あいつは繊細すぎるんだ」
「400年以上お待ちになったのよ。なのに……」
「どうせジュディスのときみたいにバカ正直に自分の正体を明かして、こっぴどく拒絶されたんだろう。魔物と人間が理解し合えると思い込んで、期待したあいつが愚かなのさ。欲しいのなら強引にものにしてしまえばいいものを」
「拒絶なんてされてない。まだ挨拶すら交わしちゃいないわ」
「なんだ……じゃあどうしてあんなに塞ぎ込んでる?」
「マリアンヌ様は今世……修道女として転生していたのよ」
フードの淵から雨粒を滴らせ、ファヴィラはうつむく。そのさまを見下ろしながら、トニトルスは声を上げて笑った。
「ははっ!まさかそんなことは有り得ないだろうと思っていたが……そうか、神の手駒に生まれ変わっていたか」
「魔の存在と深く交わった者が聖職者や修道者に転生することは極めて稀。でも、めずらしいからといって予知できないわけじゃない……そうなる未来を事前に見ることは十分可能だった」
「わかっていたなら初めから教えてやればよかったのに」
「修道女とは考えてもみなかった」無表情の彼女はうつむいた。「占術は大はずれよ。ミュリアス家の血を引くジーク・トラジェットの長女として転生し、成人後は教師になると確かに出ていたのに……まさかこんなことになるだなんて」
それを聞いた瞬間、愉快そうに細められていた瞳に鋭い光が戻る。
「今まで一度も予言を外したことはなかったじゃないか。……まさか、誰かの邪魔が入ったのか?」
「北の魔女のしわざか、あるいは……私の魔力が落ちているのだわ」
「魔力が?なぜ」
「わからない」
フードの下でうつむいたままのファヴィラは、赤い唇から溜息をこぼした。
「ここのところ思うように力が使えないの。この町のどこかに潜む厄介な連中の正体も、いまだに突き止められていないのよ。お兄さまのお役に立ちたいのに」
土砂降りの雨のなか、声は掻き消えそうにか細い。
「お兄さまにもしものことがあったら、私……」
「心配するな。なにがあろうとオレが必ず守る」
静かに言ったトニトルスは、再び天を仰ぎ高らかに咆哮する。




