25話
エミリアは息を呑み絶句した。石像のように固まっている彼女に、神父は言う。
「マクドウェル殿と話をして今後の対応を決めます。今日ここで交わした内容は誰にも話してはなりませんよ」
「お待ちください神父様!」
エミリアはその後に続く言葉をためらうように唇を結び、うつむいて黙した。
彼と目が合ったときに感じた心臓の高鳴りと不思議な懐かしさ……そして突如として思い出されたあの記憶は何だったのか。エミリアはせつなく疼く胸を押さえ、ちいさく息を吐いた。そして目を上げると、意を決した表情で訴えかけた。
「処断につきまして今しばらくのご猶予をいただけませんでしょうか。私が城を訪い、彼が邪悪なる者なのかそれともただの人間なのか、真実を明らかにしてみせます」
「シスター・エミリア……」
「かの御方はドラド大公国から亡命してらっしゃったと聞いています。彼も私もこの国の皆さまにとっては異国の徒……大きな事件が起こると真っ先に疑われてしまう。戦禍の歴史を振り返れば警戒されるのは当然ですが、証拠もなく疑惑を掛け罪を着せて追い出すなど、あまりにひどいではありませんか」
声を喉に詰まらせ、エミリアは再び視線を落とす。そして、一呼吸置いたのち言葉を続けた。
「確かに私もアルベスク様から敵意のようなものを感じました。しかし悪魔はあんなに哀しげな目をしません。これは憶測にすぎませんが……周囲の人間の悪意ある態度に対する憎しみや寂しさがあの御方の顔を曇らせてしまったのではないでしょうか」
エミリア自身、聖霊大祭の最中に起こった不可思議な出来事について、気のせいだとは思っていない。聖か邪かは判断しかねるが、なんらかの力が働いてあの現象が起こった……そしてそれを引き起こしたのはおそらく、リュシアン・アルベスクだ。
騒動の発端となった人物をなぜここまで必死になって庇っているのか、エミリア本人もわかっていなかった。ただそうしなければならないという衝動だけが、彼女を動かしていた。
「城を訪うことをどうかお許しください」
懇願の眼差しを向けてくるエミリアを見つめ上げたトマス神父は、断固たる態度で首を横に振り、
「あの者と接触することを禁じます。あまりにも危険だ」
言い放つと、覚束ない手つきでグラスを傾け中身を飲み干した。
「公正無私の立場でご判断くださいませ神父様……神は地に生きる我が子が謂われなき罪を背負うことをお望みになりません」
「悪魔は神の愛し子ではない」
見たこともない恐ろしい形相に気圧され、エミリアは反論の声を飲み込んだ。
彼女を睨み上げたトマスは、低めた声で続ける。
「冷遇されたとき、あなたは民衆に寄り添おうとし、彼は憎しみを抱いた。差別を受け苦しむ思いは同じであろうとも、本質は真逆。私は彼が内に秘めている悪を見たのです。光のもとにいなさい。そして祈るのです。シスター・エミリア」
彼はグラスをエミリアに手渡すと、話は終わりだというようにベッドに横たわる。
目を閉じてしまった彼を見下ろしたエミリアは子どものように不安げに瞳を揺らし、顔をうつむかせた。
トマス神父は常に一番の理解者であった。どんなときも彼は、こちらの言葉に熱心に耳を傾け、傷んだ心をやわらかく抱きとめてくれた。まるで本当の父親のように……
真冬の風のような哀しみが襲ってくる。彼女は今までにない孤独感を覚えながら、静かにベッドから離れた。
肩を落として神父の部屋を出ると、乾いた洗濯物を抱えたギルバートと鉢合わせた。
「手伝わせて」
作り笑いを浮かべたエミリアは彼の腕の中から半分取り、連れ立って歩き出す。
「休まなくていいのか?」
「昨日の夜は夢も見ないほど深く眠ったわ。もうすっかり元気よ」
「元気と言う割には浮かない顔してるじゃないか」
覗き込んでくるギルバートに微笑み返し、エミリアは溜息まじりに言った。
「おなかが空いているからかも」
彼はくしゃっと笑って、
「夕食までにはまだ少しあるな。キャンディでも舐めて空腹を紛らわせたらどうだ。まだ薬壺に残ってたぞ」
「実はアニスの味が苦手なの。ガラスビーズを舐めながら待つことにするわ」
「はは。いいね」
「あなたもおひとついかが?」
「シロップ漬けにしてあるならいただこう」
冗談を交わしながら洗濯室に入り作業台に洗濯物を置くと、作りたての石鹸を棚に収めていた修道士ティム・パインズが振り向き彼らに会釈した。
「トマス神父様のご様子はいかがですか」
問うたティムは腰に下げた鈴を鳴らしながら乗っていた台から降りて、ふたりの顔を交互に見る。
「今日はまだ一度も食事をお召し上がりになっていないが……昨日よりも意識がはっきりしているし顔色も良い。徐々に食欲も戻られるだろう」
エミリアより先にギルバートがそう答える。石鹸の匂いの彼はほっとしたように口元を綻ばせた。
「ならばよかった。朝から訪問者が絶えないんです……皆、神父様のご快復をお祈りされています」
「神父様は今回のことをどのようにご説明されるのだろう。エミリア……君はなにか聞いてるか?」
ギルバートの視線を受け、顔を強張らせたエミリアは胸の裡で逡巡した。トマス神父は明らかに様子がおかしかった。話の内容は口止めされているが、彼の異変については共有しておいたほうがいいのではないか?
しかし結局彼女はそれをしなかった。ゆっくりと首を横に振り、
「いいえ。何も」
短く言うと、落ち着きなく泳ぐ目を床に伏せた。
「……そうか」
ギルバートは続けてなにか言いたそうな顔をしたが唇を閉じ、ティムに顔を向けた。
「ネルフィナ救貧院への献金の件でレイモンド公爵の使者がいらっしゃる予定なんだ。神父様に代わって俺が対応するから、奥の間にお通ししてくれ」
言いつけられたティムは横目でエミリアを窺い見たが、ギルバートの視線がきつくなるのを感じて小さく顎を引く。
「ティム……確か君は、文書管理係のバーニー・ミンガムと同室だったよな」
「え?……あ、はい」
「今後しばらくのあいだ、神父様宛ての書簡はすべて俺に渡すよう伝えておいてほしい」
有無を言わさぬその態度に驚いて、エミリアは目を瞠った。
「ギルバート……その仕事はこれまで通り私が担当する。あなたにこれ以上負担は掛けられないわ」
教会に届く書簡の仕分け、教会への寄付や献金などの管理は副助祭であるエミリアの仕事だ。ギルバートは修道者の中でリーダー的な存在であったが正式な役職を持たない。聖堂および修道院の運営に対して口を挟むことはできないのだ。にもかかわらず、彼はきっぱりと言い放った。
「無理をするな、エミリア。副助祭代理としてうまくやっておくから任せておけ」
「でも……」
「聖堂内に古城の悪魔を招いた教会関係者がいるという噂も流れている。君は事態が収まるまで静かにしていた方がいいんじゃないか?」
からりとした声で言うと、ギルバートはエミリアから目を逸らし、作業台に置いた洗濯物を畳み始める。
「どういう意味?なぜそんなことを言うのギルバート……」
「エミリア……傷ついた顔をしないでくれよ。君が修道者たちから後ろ指をさされないよう、親切心から忠告してるだけじゃないか」
「後ろ指をさされるようなことをした覚えはないわ」
「現状をわかっていないはずないよな。大事な典礼の最中に騒ぎが起きて、みんなうんざりしてるんだよ。俺だってもうあんな厄介事に巻き込まれるのはごめんだ。部屋で大人しくしていてくれ」
心臓が大きく波打つ。エミリアはわななく唇を手で覆った。
「まさかあなたまで、私があの騒動を引き起こした元凶だと思っているの?」
その問いに彼は答えず、ただゆるりとかぶりを振った。
「古城の連中がこの町を出て行くまでの辛抱さ」
淡々と紡がれる棘のような言葉に、エミリアは言い知れぬ不快感を覚える。薄く涙を浮かべた彼女は顔を背け、色を失った唇を噛んだ。
異国人の女を教会が擁護するべきではないと、非を鳴らす者もいる。余所者が災いを運んでくると信じている民衆に対し、教会が反論することはない。彼らは常に民衆の側に立っている。
聖ラディウス教会に初めて来たとき、修道者たちはみな味方になってくれた。あらゆる方面から飛んでくる誹謗中傷や妨害行為から身を挺して守ってくれた。しかし今、彼らはこの教会にいない。あたたかく親切な人々は新たな居場所を見つけ、去っていった。
ひとりになってしまったのだ。
それに気づいた瞬間、腹の底に冷たい水を流し込まれたような気がして、エミリアは震えた。
この世界は多様な価値観に溢れている。その中に自分たちと同じ民族ではない者を敵視し排除しようとする者たちがいるのは当然のこととして受け止められても、信頼をおいている仲間にまで白眼視されるのは耐え難い。
小さく震えながらエミリアは、聖堂で見たリュシアン・アルベスクを思い出した。印象的なあの瞳――薄氷のようなアイスブルー。哀しみと憎しみ、絶望が入り混じったような複雑な表情と、どこか懐かしい面影を。




