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FATUM  作者: 紙仲てとら
第一章

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24話

 傷だらけの銀のトレーに煎じ薬とグラスを載せ、エミリアはトマス神父の私室を訪れた。

 躊躇いがちに扉をノックすると、内側から弱々しい声が返ってくる。

「どうぞ」

「失礼します」

 彼女は緊張していた。一呼吸おいて、軋む扉を押し開ける。

 薄暗い室内は香の匂いに満ちていた。ベッドの上にいるトマスは枕を背にあて、窓の外の鮮やかな緑を見つめている。

 聖霊大祭の最中に起こった騒動から一晩が経過した。リュシアンが去ったあとすぐに典礼の中止が発表され、信徒らは治安官と修道者の指示に従い黙って家路についたが、今日になって数人の男が教会を訪れ先日の件についての説明を求めてきた。

 聖堂に悪魔が忍び込み、それが神の目を盗み悪さを働いたせいでトマス神父が気を失ったのだ――そう主張する彼らは、悪魔を身に宿しているのはあの日聖堂にいた“疑惑の男”リュシアン・アルベスクだと訴え、早急に火刑に処すべきだと息巻いた。

 今回の騒動の顛末は参列者らの口から詳しく語られまたたくまに町中に広まった。どうやら犯人はジャーメイン城に暮らす例の伯爵であるらしいという情報がもたらされると、町は火の付いたような騒ぎになった。

 やはり余所者は災いを運んでくる……ドラド大公国からやってきたリュシアンを糾弾し迫害しようとする動きや排他的思想はいっそう高まり、今や彼と同じく異国にルーツを持つエミリアにまで累が及ぶ事態となっている。害をなす余所者から郷里を守らねばという危機感は人々のあいだに伝播し、恐れや怒りの感情はかつてないほど膨れ上がっていた。

 町に大きな事件が起こるたびに異国人を淘汰する流れが活発化するのには、歴史的理由が関係している。

 グレンスピアは、ヘルマドラ王国、ゼールラント帝国、ドラド大公国、ルム・ドマ共和国を擁する巨大な大陸である。エミリアは大陸から見て西側の海に浮かぶカルタイ王国ロメネル島で育ったが、彼女の両親はその反対に位置する東側の島国ラングベッカー王国出身だ。ここもまたロメネル島と同じく、大陸とは違う独自の文化と宗教を持っている。

 大自然を神と崇め信仰するカルタイ王国のイルビヌス教団は太陽神カダを最高神として祀り、ノレム教発祥の地であるラングベッカー王国は国王を始めとした多くの国民が唯一神ダミア・シシを信奉する。どちらの宗教もクインレスタ教とは相容れず、信仰するものの違いは諍いを生み、大規模な宗教戦争が幾度も起こった。

 この事態を重く見たヘルマドラ王国の前国王サフィラス6世が大陸周辺の島国と和平を結んだことにより戦は収まったが、それから30年以上が経過した現在も水面下での睨み合いは続いている。

 どの国も、グレンスピア大陸の覇権を握るサフィラス6世に手綱を引かれたから大人しくしているだけで、相手が信じる神の存在を認め尊重し合っているわけではない。事実、庶民同士で起こる小競り合いの原因となるのは宗教間の対立がほとんどであり、彼らはそういった諍いを避けるために同じ国籍・同じ宗教を信仰する者のみでコミュニティを固め余所者を嫌った。そのためカルタイ王国ロメネル島からやってきたエミリアはケンプベルに移住した当時、住民の多くから警戒され嫌がらせを多く受けたのだ。

 エミリアは町の至る所でこう噂されていた――ラングベッカー王国を祖国とし、ロメネル島で育った者がまさかクインレスタを信奉するわけがない。彼女はクインレスタ教信者を根絶やしにするために遣わされた邪教の徒、太陽神カダを崇めるイルビヌス教団の信者であり、修道者を装って教会に侵入し厄災を呼び込もうとしている、と。また、ケンプベルには「悪魔との姦淫によって生まれた子どもは紫水晶のような瞳をもつ」という言い伝えがあり、エミリアがそれと同じ目の色をしていたことも、民衆の忌避感に拍車をかけた。

 根も葉もないその噂を払拭するため、彼女は町の人間と積極的に交流を持ち奉仕活動に精を出した。そうして長い年月を掛け地道に信頼を築いてきたわけだが、これまで積み上げてきたものすべてが今回の騒動でいとも簡単に水泡に帰し、振り出しに戻ってしまった。彼女はケンプベルに来たばかりのころのように民衆から敵意を向けられ、リュシアン・アルベスクと共に迫害の対象となっている。

「薬をお持ちしました」

 古びたテーブルにトレーを置き、エミリアは小さなグラスにそれを注ぐとトマス神父に差し出す。

 彼はそれを見つめるばかりで受け取ろうとはしなかったが、やがてゆっくりと指を広げてグラスを包み込む。

「ありがとう。あなたも急に倒れたと聞きましたが……いったいなにがあったのですか」

 揺れる液体に視線を落としたまま、トマス神父が言う。

「睡眠不足だったせいか、気分が悪くなってしまって……昨晩ぐっすり眠ったらだいぶよくなりました」

 眉を下げて笑うエミリアを見上げ、彼は蒼白の顔のまま言った。

「下手な嘘はやめて包み隠さずお話しなさい」

「――神父様?」

「あなたも見たのでしょう?シスター・エミリア……」声を低め、弱々しく続ける。「邪悪なる者を」

 その言葉にエミリアの顔から笑顔が消えた。神父は彼女の胸の裡を見透かしたかのようにひとり小さく頷く。そして再び手元に視線を落とした。握り締めたグラスが微かに震えている。

「あの男こそが古城の主……ロンドール伯リュシアン・アルベスク。皆が恐れる魔の者です」

「彼が……」

 名と顔が合致したとき、エミリアの心にひとつの過去が甦る。

 ヘルマドラ王国を目指す航海のさなか、ドラド大公国の港町テシュナーに寄港した。クインレスタ教三大聖地のひとつバルデ・アークへ巡礼した際の帰り道、小高い丘の中腹に建つ邸宅を見たオーガストが彼の名を口にしていたのだ。語られた話の内容はよく覚えていないが、名前だけはなぜかはっきりと思い出せる。

「町の者たちが言っていたのは妄想ではなかった……あの城に棲まうのは悪魔だ。9人もの人間を手にかけ……ついに聖域を侵しにやって来た……」

 顔の色を失ったエミリアは、何も言えず口を噤んだ。ベッドの上のトマスは見開いた目で手元を凝視し、体を左右に揺らしながらつぶやく。

「悪魔はなぜ聖域に侵入することができた?教会の人間が手引きしたのか?だとしたらいったい誰が……」

 神父はリュシアン・アルベスクを悪魔だと信じているようだが果たして、悪魔や怪物が神を恐れず祈りの言葉にも屈せずに聖域にいられるだろうか……疑問に思いながらも、彼女は静かに問うた。

「教皇庁から祈祓師を招くおつもりですか」

 彼は小さく息を吐いたのみで、その質問には明確に答えなかった。憔悴した顔を手のひらで拭うと、代わりにこう言った。

「騒動の現場にいたことで、アルベスク伯爵に向けられる目は相当厳しいものになったはず……これ以上騒ぎが大きくなる前に出て行っていただきます」

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