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FATUM  作者: 紙仲てとら
第一章

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21話

 町を包んでいた夜闇を、輝く太陽が拭い去っていく。

 寝室の小さな硝子窓を開け放ち、エミリアは朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 体が重い。昨晩は妙な胸騒ぎがして眠れず、ベッドの中で何度も寝返りを打っているうちに夜が明けてしまった。

 あと30分もすれば皆が起き出してくるだろう。そして新たな一日が幕を開ける。食事の支度や掃除、祈りと瞑想といういつも通りの日程に加え今日は、クインレスタ教にとって非常に重要な典礼、聖霊大祭がある。

 エミリアは手のひらで顔を拭い人知れず溜息をついた。忙しい日になりそうだ。

 室内に振り返った彼女は壁に備え付けてある戸棚を開ける。そこには薬草酒や水薬などの瓶がずらりと並んでいた。これらはすべてロサ・リタ修道院で製造しているもので、ここに住まうすべての修道者に定期的に配給される。薬草酒は心身の健康を保つため就寝前に毎日少しずつ飲むよう言われているが、酒を好まない彼女はほとんど口にすることがなく、減りが遅い。未開封のものも数本ある。

 彼女は大小さまざまな瓶の中から滋養強壮の効果がある薬草シロップを取り出すと、カップに一匙垂らす。水を入れて混ぜ一息に呷り、それから修道服に着替えて部屋を出た。

 石造りの廊下は凍えるほど寒い。昼の野山には確かに春の気配がしていたが、早朝にはまだ小さな冬が居座っている。彼女は体を縮めて身震いしながら、小走りで洗面所へ向かった。

 洗顔などを済ませ炊事場に入ると、そこにはすでにギルバートがおり、窯に火を入れていた。エミリアの気配に気付き振り向くと、眠そうに目をこすりながら声を掛ける。

「おはよう。ずいぶん早いじゃないか」

 朝の挨拶を返したエミリアは桶に水を汲み、オリーブ石鹸で丹念に手を洗った。この石鹸も修道院で手作りしており、ケンプベルの商店街にある修道院直営の薬局で不定期に販売している。入荷するとわずか数時間のうちに完売してしまうほどの人気商品だ。

「いよいよだな」ギルバートは煮立ったスープを掻き混ぜ、もう片方の手で人数分の木椀を用意しながら続ける。「朝食を終えたら無酵母パンを焼こう。前回の聖霊大祭のときは全員に行き渡らなかったから多めに用意しなきゃな」

 布で手を拭いながらエミリアは頷く。どこか浮かない表情をしている彼女を横目で見たギルバートは、鍋を掻き混ぜる手を止めて近づいた。

「どうした?顔色が悪いぞ」

「大丈夫。よく眠れなかっただけ」

「それはめずらしい。いつも悠然と構えている君が儀式くらいで緊張するとはね」

「緊張はしていないけれど、なんというか……すこし不安なの」

「周りからの期待を重く感じてる?らしくないなエミリア。プレッシャーを愉しむタイプじゃないか君は。国王陛下と大主教の前で聖歌を独唱した日のことを思い出せよ」

 いたずらっぽく片目を細めて笑う。エミリアは苦笑して肩を竦め、作業台に積まれている木椀とスプーンの束を手に廊下に出た。

 エミリアは司祭の補佐役である副助祭の地位に就いている。今日の典礼においてこの立場は非常に重要な役割を担う。

 ギルバートにはああ言ったが、彼女は今日の儀式に対し不安を感じているわけではなかった。

 典礼には副助祭として何度も列席している。重責は感じているが、眠れないほど不安であったり気負ったりしているわけではない。

(この胸騒ぎは一体……)

 不快な心の乱れを感じながら、エミリアは食事室に入る。建付けの悪い窓から入ってくる隙間風のせいで冷え切った室内には、まだ誰の姿もない。火の気のない暖炉の正面に粗末な木製の長テーブルと椅子が並び、壁をくり抜いて作られた祭壇には大理石でできたクインレスタの「祈りの聖像」と、柊の枝葉が飾られている。

 神の姿を照らし出す蝋燭の灯りを見つめたまま、エミリアは茫然と立ち尽くした。薄い修道服に包まれた体は寒さのためかそれとも別の理由からなのか……小刻みに震えている。

「天地を統べる母なる神よ。光の御手をさしのべ、邪を遠ざけたまえ。世に惑う子羊の我らを守り救いたまえ――」

 聖像を仰ぎ見て、ほとんど無意識に祈りの言葉を口にしたそのときだ。どこからか吹いてきた一陣の風が彼女の黒いベールを揺らし、無垢な白肌を撫でた。

「私の愛しい人」

 耳のすぐそばで聞き覚えのない男の声が響き、エミリアは驚いて振り向いた。

 誰もいない。表情を硬くした彼女は息を呑んで、周囲をぐるりと見回す。

 やはり人影はない。ここにいるのは自分ひとりだ。漠然とした不安が背筋をなぞり、肌がぞわりと粟立った。

「誰……?誰か、いるの?」

 口の中で小さく問うも、答える者はおらず辺りはしんとしている。

 エミリアは木椀とスプーンをテーブルに置くと、甘やかな声が残る耳に触れる。胸の鼓動が早くなるのを感じながら立ち竦む彼女の背後で、祭壇の灯が一斉に消えた。

 彼女はそれに気づかない。薄闇に沈むクインレスタに背を向けたまま、男の声と言葉を頭の中で繰り返している。何度も、何度も……



 朝の祈りと瞑想を終え、塩で味付けした人参の葉のスープと一欠片のチーズのみという質素な朝食を済ませたエミリアは、先ほどの不可思議な一件を誰にも言い出せぬまま典礼の準備に入った。

 司祭や副助祭の他に修道者は30人ほどいるが、特別な儀式で清められた聖堂に入り典礼の準備をするのは副助祭であるエミリアひとりだ。儀式のための祭器を用意し、主祭壇を整え、銀の燭台や聖杯を磨き……儀式の際に司祭が指を洗う小鉢までもを準備する。

 聖卓に清潔な麻の布を引き、参列者に恵むための無酵母パンと薬草酒の入った銀のピッチャーを置いたエミリアは、講壇越しに信者席を眺めた。パンの焼き加減を失敗し作り直したためどうなることかと思ったが、なんとか間に合いそうだ。

 彼女は明かり取りの窓からこぼれ落ちてくる陽の光を見上げ安堵の息を漏らすと、自然と微笑んだままクインレスタの聖像に振り向いた。

 主祭壇奥の壁に嵌め込まれたステンドグラスが美しく輝いている。快晴だ。心洗われるような思いで、光に包まれた聖像を見つめる。

 すでにエミリアの憂いは取り払われていた。典礼の準備に追われるうちに、いつもの落ち着きを取り戻していたのだった。

「シスター・エミリア」

 穏やかな声が円天井に響く。

「神父様」

 祭服を着たトマスは整えられた主祭壇を見遣り、満足そうな微笑を唇に刻んで側廊を歩んできた。

「今回の祭壇も見事な美しさですね。すばらしい仕事をしてくれてありがとう」

「もったいないお言葉」

 エミリアは膝を軽く曲げ優雅にお辞儀をする。伏せられた顔をそっと覗き込んだ神父は、口元の笑みを消して言った。

「ブラザー・ギルバートがあなたの体調のことを心配していましたよ。確かに顔色が優れませんね」

「昨夜ほとんど眠れなかったものですから……」

「それは……。心労が溜まっているのかもしれません。大事を取って今日の典礼の補助は他の者に任せましょう。あなたは自室でしっかり休みなさい」

「いいえ、ご心配には及びません」

 エミリアは明るく笑ってみせ、

「祭服に着替えてまいります」

 一礼すると、足早に聖堂を出た。

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