22話
昼12時を回り、信徒たちが聖堂に集まり始めた。
靴音と衣擦れの音だけが辺りに響く。指を組み床に膝をついて祭壇を見上げ祈る者、静かに座して始まりの時を待つ者、祈祷書に目を落とす者……彼らはそれぞれに神と向き合い、厳かな空気を壊すまいとして固く唇を結んでいる。
そんな中、黒いステッキを持ったひとりの男が鷹揚な足取りで聖堂内に入ってきた。
身廊の中央を歩みながら、目深に被っていた帽子を取る。その存在に気付いた者たちが息を呑み、そっと距離を取った。彼が歩を進めるたび、一様の反応が波紋のように聖堂内に広がっていく。
この男が例の貴族であることは、誰の目にも明らかだった。プラチナブロンドと薄青の瞳という彼の容姿の特徴が他国から来たよそ者だということを物語っていたからだ。
漆黒のフロックコートは見るからに上等なものである。繊細な刺繍の施されたベストの下に白のフリルブラウスを着、コートと同色のスリムな長ズボンにレザーブーツを合わせている。決して派手な装いではないが、その美麗な容姿と背格好の良さもあいまって彼は人々の目を釘付けにした。
その男――ロンドール伯リュシアン・アルベスクは、ケンプベルで立て続けに起こった一連の殺人事件に関与しているのではないかと町中の人間から疑われ関心の的となっていたが、実際にその姿を見たり言葉を交わした者はいない。
みな彼のことをあれこれ勝手に想像し悪と決めつけ忌み嫌ってきた。しかしその姿を目の当たりにした今、嫌悪の感情は驚愕に掻き消されてしまっている。
彼の持つ犯しがたい気品と大輪の薔薇を思わせる壮絶な美しさに、信徒らはただただ圧倒された。無理もない。光り輝く白皙の肌、優艶な微笑を湛えた唇、そして、好奇の目にも怯まない威風堂々とした態度……野蛮な怪物、残酷な悪魔と噂してきた人物は、澄んだ湖水のように清らかなアイスブルーの瞳と愛くるしい巻き毛の若き美男子であったのだ。
先日城で対面した4人の男たちと同じような表情をしている彼らを横目に、リュシアンは身廊の中央まで歩みを進め、信者席に腰を下ろした。その両隣には誰も座ろうとせず、みな離れた場所でちらちらと彼を盗み見ている。
(不躾な奴らだ……)
リュシアンは不愉快な気分を微笑の奥に秘め、窓からの柔らかな光に神々しく輝く主祭壇に目を遣ったままじっと座っている。
すると頭の中に自分のものではない静かな声が届いた。
(お兄さま)
ファヴィラだ。
リュシアンは目を閉じ意識を集中させる。声はか細く小さい。
(お兄さま……。教会の外にウングラを待機させております。くれぐれもご無理なさいませんよう)
聖ラディウス教会の祭儀に参加すると聞いたファヴィラは最後まで反対した。いくら上級種といえど、聖域の空気は体に毒だ。神聖な光に浄化されて魔力を失えば、正体を見破られないとも限らない。
それでも行くというリュシアンに、姉妹のなかでもっとも好戦的で強靭な肉体を持つウングラを護衛に付けた。怒りに我を忘れると視界に入るものすべてを破壊しつくすまで止まらないのが欠点だが、主の危機には必ず役立つだろう。
鐘楼の鐘が鳴り響く。聖霊大祭開始の合図だ。
パイプオルガンの演奏が聖堂内に満ちる。信徒たちは一斉にリュシアンから目を逸らし、指を組んで深く項垂れた。アルバロ少年合唱団による美しい聖歌が始まると共に大扉が開く。
香炉を振りながら身廊を進んできた侍者に続き、副助祭エミリア・コレット、助祭オクタヴィアン・ソマーズ、そして司祭であるハリー・トマスが入堂してきた。
荘厳な音色に包まれたエミリアは、香炉を持った侍者の少年に続きゆっくりと歩いていく。明り取りの窓から降り注ぐ光が儚げな横顔を照らし、繊細な睫毛が雪のごとく白い頬に濃い影を落とした。
主祭壇に向け厳かに歩を進める彼女を目にした瞬間、リュシアンの表情が陰りを帯びる。
(――マリアンヌ……)
見間違えるはずがない。その顔は彼女と瓜二つだ。
帳然とするリュシアンの横を通り過ぎたエミリアは、彼の胸の裡など知る由もなく祭壇の前に立つ。
やがてパイプオルガンの音と聖歌が止んだ。
信徒全員で詩編を読む間も、リュシアンは固く口を噤み、じっとエミリアを見つめていた。昏い眼差しを投げかける瞳はいつもの輝きを失い、運命に対する悲憤に満ちている。
聖堂内の異変にいち早く気付いたのはトマス神父であった。聖域を穢す淀んだ空気を敏感に感じ取った彼がそれとなく信者席を見渡すと、そこには既知の男――リュシアン・アルベスクがいる。
その印象は、彼がおぼろげに抱いているものとはまるで違っていた。
ジャーメイン城を訪れたあの日、もてなしてくれたのはどこにでもいる偏屈な貴族であったはずだ。世間知らずで小生意気ではあるものの若い活力に溢れ、清冽なアイスブルーの瞳がまぶしいほどに輝いていた。
しかし今の彼にはその光の名残もない。まるで、人の姿を模した黒い塊が座しているようだとトマスは思った。これが彼の本性だとしたら、うまく擬態したものだ。
城を訪問した翌日、治安官チャーリー・マクドウェルは黒い液体を吐き、気絶した。目覚めた彼に状況を説明したところ、いっさい記憶にないという。現在は心身の不調もなくいつも通りの生活を送っているようだが、あの日起こった不可解な出来事はずっと胸に引っ掛かっている。
この一件にリュシアン・アルベスクが関わっていないはずがない。彼は邪悪な人格特性を持つ危険な男だ。今日こうして参列したのもこちらに招かれたからではなく、なにか別の目的があるからではないか?
固唾を呑んで凝視していると、リュシアンの瞳に白銀の光が灯るのが見えた。その目が見つめる先にいるのは……修道女エミリア・コレットだ。
狙いは彼女か!危機を察知した神父が両手に持っていた祭器を手放しエミリアに近づこうとしたとき、リュシアンと目が合った。鋭く睨みつけられた瞬間、手足が自分の意思で動かせなくなり不自然な姿勢でその場に立ち止まる。
四肢の自由を奪われた神父は小刻みに震えながら眼球だけを動かし、階段下に立つエミリアを見た。危険を知らせなければと唇を開くも、舌が縫いつけられたように口内に張りついて一言も発することができない。
エミリアは神父の異変にすぐさま気づいた。彼の目が信者席の方にゆっくりと移動するのを見た彼女は、その視線の先を辿り背後を振り返る。
そこには男がひとり。規則正しく並んだ長椅子の中央で静かに座っている。
奇妙な光景だった。
その男のまわりにだけ人がいないのだ。側廊に立っている信徒たちは、彼の両隣が空いているにもかかわらず座ろうとしない。前後の長椅子も空席で、彼が他の信徒たちから避けられているのは一目瞭然だ。
神父の様子を眺めていた男が、目を転ずる。
仄暗い瞳に見据えられ、エミリアはぞくりと身を震わせ動きを止めた。




