20話
悲しいかな、彼は抵抗する暇もなかった。喉の奥から絞り出したような呻き声を上げながらこぼれんばかりに目を見開き、はくはくと口を動かす。鎌の柄を握っていた指がほどけ、金属音が辺りに虚しく響いた。
歯に当たる硬い筋の感触はすでに懐かしい。数週間振りの新鮮な生き血だ……牙を抜いた孔から溢れる血をじゅるりと一口啜って味わうと、あとは本能のまま夢中で吸い上げた。全身に力が漲るのを感じる。とめどなく流れ出るあたたかな血潮を一滴もこぼすまいとリュシアンは更に大きく口を開けて首筋にかぶりついた。
この青年の父を、リュシアンは知っている。以前この町の近くを通ったとき、彼の飼う牛が道を塞ぎ馬車が立ち往生した。彼はそれを見ても悪びれず不遜な態度を取っていたが、リュシアンが名のある貴族と知ったとたん酷く恐縮し謝罪してきた。
それまでの態度を一変させた彼はリュシアンらを自宅に招き、迷惑を掛けた詫びとして蹄鉄の交換やら馬車の車輪の手入れやらをせっせと行うと、卑しい笑みを浮かべながら頭を下げ「いつでもここを使ってください」と言ったのだ。納屋の中には餌が豊富にあり、近くに水飲み場もある。日夜問わず納屋の扉は開け放してあるから、通り掛かったときには馬を自由に休ませてもらって構わないと――
リュシアンは愚かな父を持つ息子を憐れに思った。自分より身分が高いと知るなり媚を売り、容易に自分の領域に招き入れたのが間違いだ。町からすこし離れた場所にぽつんと建つ家。母屋から離れた納屋、そして3人の息子と2人の娘。彼はヴァンパイアに格好の餌場を教えてしまったのだ。
腕の中のヘンリーは恐怖に身を硬くし痙攣を起こしたように小刻みに震えていたが……血を吸い上げられるたびに強張っていた表情はゆるみ、徐々に恍惚としたものになっていく。筋肉が弛緩しもたれかかってくる体を抱きしめながらリュシアンは血の味の変化を舌に感じ目を細めた。快楽に支配された人間の血はなにより美味い。唇を離した彼は舌先で牙の痕を愛撫する。ヘンリーは顎から涎をしたたらせながら甘ったるい声で啼いた。
すると突如として、甲高い悲鳴が響き渡った。その先に視線だけをやる。様子を窺いに来たのだろう……細かな干し草が散らばった土の上に、イザベラがへたり込んでいた。
リュシアンは首筋に埋めていた顔を上げ、白銀に光る目で彼女を見つめると、唇に人差し指を当てた。
「静かに」
短く言った彼は、気を遣って白目を剥いている男をあっさり手放すと、舌なめずりしながらイザベラに近づく。
「来ないで!近づいたら、痛い目に合わせるわよ!」
威勢よく叫ぶも腰が抜けて立てず、彼女は手足をばたつかせて必死に後ずさる。壁際まで追い詰めたリュシアンは、干し草を手当たり次第に掴んで投げつけあらんかぎりの声を張り上げている彼女に覆い被さると、両手首を掴み土の地面に押さえつけた。
口元を汚す真紅が、顎を伝って彼女のふくよかな胸元に垂れる。伸ばした舌でそれをきれいに舐め取りながら首筋に鼻先を埋めると、汗ばんだ肌の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込んだ。そして牙を剥き出し、濡れた唇で残酷に笑う。
「処女か」
イザベラの表情が絶望に歪む。牙の先が柔い皮膚に触れた瞬間、彼女は絶叫した。もがく体を全身で抑え込むと、リュシアンは首筋や肩口を甘噛みしながら囁く。
「堪能させてもらうよ」
その言葉に目を瞠った瞬間、首筋に牙が埋まり、ぶつりと皮膚が破れる不快な感触が全身を駆け巡った。熱い衝撃と共に喉元を引きつらせた彼女は、ぶるりと身を波打たせる。鋭い痛みが脳天を貫き、左の首筋が瞬時に冷えていくのがわかった。がくがくと体が震え、心音が早まるにつれ痛みの感覚が麻痺していく。
長くしなやかなリュシアンの指が、耳殻をなぞる。乱れた髪をやさしく梳かれると、イザベラはすぐに抗うのをやめ静かになった。血を失うにつれ彼女の顔は多幸感に満ちたものとなり、悲嘆の涙に濡れていたはずのその目に淫靡な光がちらつき始める。
ヴァンパイアは獲物を魅了し惑わせ、そのあいだに血を啜る……彼が創り出す甘美な幻覚に囚われたイザベラは、恋人のことも忘れ見知らぬ男との享楽に耽った。
牙が皮膚の下にめり込んでいくたび、半開きになった唇から熱い吐息がこぼれる。リュシアンの胸に抱かれせつなく眉を寄せた彼女は、声も出せないほどの強烈な快楽に襲われていた。尻が自分の尿で濡れるのを感じながら、激しい絶頂を迎えやがて事切れる。
処女特有の薫り高い血潮はリュシアンの体の隅々に浸み渡っていった。彼はじっくりと時間をかけ一滴も余さず女の血を啜り、満足げな表情で唇を離す。
踏み固められた冷たい土の上にぐったりと横たわるイザベラは生前の美しさを留めていなかった。肉感的な体はすっかり萎み、輝くばかりだった美貌は見る影もない。血と同時に精気をも吸い取られたことで眼窩は落ち窪み頬は削げ、醜悪な骸と化していた。
リュシアンはベルトにつけた小さな革のポーチからハンカチーフを引き抜いた。口元を丁寧に拭いながら冷めた瞳で彼女を見下ろすと、腰に佩いていた大型ナイフを鞘から抜く。そして、
「すまないね……」
耳元で囁き、目にもとまらぬ速さで彼女の首を切り落とした。
「兄上」
ふいに暗がりから声がした。その方に振り向くと、闇が形を成して薄明りのなかに現れるのが見えた。
「遅いぞウングラ」
「おおかみを撫でていた」
くぐもった声で応えたウングラは倒れている青年の方に目を遣る。彼の体にできたふたつの小さな傷口からただよう血の臭いを敏感に嗅ぎ取り、鼻の穴をひくつかせた。
「気を失っているだけだ」
乗馬ズボンについた干し草と土を払い落としながらウングラの横をすり抜ける。
「大声を出されても母屋までは届くまい。生きたまま肉を食らおうが犯そうが好きにするといい」
「兄上の食べかけだけじゃ、おなかいっぱいにならない」
「母屋にあと6人いる。大人が2人、子どもが4人だ。他の家の人間は襲うな。食後の片付けをしたら、夜明けまでに戻ってこい」
「兄上」
「なんだ」
闇に溶け去ろうとしているリュシアンに、ウングラは問うた。
「こんなにおぎょうぎ悪く食べちらかして、兄上らしくない。これはとても、へん。兄上が人間を食べるのは今夜でさいごだと、おおかみがいっていた。ほんとうか?」
彼は扉に手をかけたまま動きを止める。
フードの下でうつむき、ウングラは続けた。
「人間は、いっぱいいる。かってに、どんどんふえていく。じゃまだから、兄上もおなかいっぱいになるまで人間を食べたらいい。そうしてだれよりも強くなって、いつまでも、私たちのそばにいてほしい」
リュシアンは何も答えない。ゆっくりと扉を開け放つ。
「兄上!」
ウングラは叫び、振り向いた。しかしそこにリュシアンの姿はなかった。




