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FATUM  作者: 紙仲てとら
第一章

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20/23

19話

 彼は湿り気を帯びた春の風を翼で切り裂きながら、家々の屋根を飛び越えぐんぐん進んでいった。

 月明かりが心地よい。青々と広がる草原を超え、清らかな川を迂回し(彼は透明な水が苦手だ)……目指す地はケンプベルから遠く離れたフォグハイム州の農村レオラトだ。

 夜空を舞い木々の間を通り抜けたリュシアンは、古びた家屋の屋根で翼を畳んだ。そして鷹揚な態度で辺りを見回すと、広大な牧草地の一点を注視する。

 彼の見つめる先、ふたつの影が水のようにさざめく芝の上を跳ねながら駆けていく。鈴のような笑い声と、ひっきりなしに交わされる甘い囁きがリュシアンの耳に届いた。

 雲の切れ間から月が顔を見せる。銀色の淡い光につつまれ仲睦まじくじゃれ合っているのは一組の男女。

 彼らの顔を視認したリュシアンは、深い轍の刻まれた泥の道に降り立ち、家の間を足音ひとつ立てずすり抜けて牧草地の方へと歩を進める。

 女のドレスの裾と男の細い体が揃って納屋に消えるのが彼の目にはっきりと映った。扉が閉まるのを見届けたリュシアンは微かな笑みを口元に湛えたまま、芝の上をするすると横切っていく。

 納屋の中、崩れた干し草の山に飛び込んだ恋人たちは笑いながら抱きしめ合った。先日17歳になったばかりのうら若いこの男女は、親の目を盗みこうして何度も深夜に逢瀬を重ねていた。

「一週間ぶりだね。会えて嬉しいよイザベラ」

「ヘンリー……私もよ」

 寝そべったふたりは小鳥がついばむようなくちづけを交わし、微笑み合う。

「お父上の具合は?」

 片肘をついたヘンリーが緑色の瞳を覗き込んで問うと、彼女は悲しげな顔で首を横に振り、

「薬の効きが悪くて毎日苦しそうにしてらっしゃるわ。この先は看護師の方に頼らず、母や妹と交代で夜通し看病をすることになったから……あなたとは、しばらく会えなくなるかもしれない」

 そう言って干し草の上に座ると深く俯き、言葉を継ぐ。

「――実はきょう伯父様に、お父様のご病気がよくならなければ侯爵家へ嫁ぐ話が早まるだろうと言われたわ。家にはもうお金がないの」

 彼は上体を起こす。悲しみに顔を曇らせ、彼女を真っ直ぐに見つめた。

「イザベラ……誰よりも君を愛してるよ。君も僕だけを愛してくれる?」

「もちろんよ」

「診療代や薬代は僕が働いて何とか工面する。お父上が快復されたら、僕たちふたりの関係を互いの両親に打ち明けよう」

「駄目よ……お父様はお許しにならないわ」

「そのときはふたりで一緒にこの町を出ればいい」

 イザベラは口元を押さえ絶句した。睫毛を震わせながら、驚愕と歓喜の涙で瞳を濡らす。

「僕には地位も財産もないけれど、必ず君を幸せにするよ」

 何度も頷き、彼女は恋人に抱きついた。ふたりは込み上げる思いに熱くなった胸を合わせ深いくちづけを交わす。息を乱して再び干し草のなかに倒れ込み、互いの体をまさぐりながら官能に酔い痴れた。

「愛してるよイザベラ……君のすべてがほしい……」

 囁いたヘンリーは、瞳の奥を覗き込む。彼女は恥じらいながらも、ゆっくり頷いた。それを見て頬を染めた彼は、ふんわりと膨らんだスカートを無骨な指でたくし上げ、白い太腿をなぞる。そしてそのまま大胆に、下着に指を掛けた。上等な絹の感触……彼女の胸元から立ち昇る香りにくらくらしながら、ゆっくりとそれを膝まで引き下げる。

 そのときだった。鉄の車輪が砂を噛む耳障りな音と共に、納屋の扉が開く。

 燃え上がっていた恋人たちはとっさに動きを止め、闇の中で息を呑んだ。

 父か母が探しに来たのかもしれない……青年は呼吸を止めたまま、扉に目を転じた。しかし月光が差し込んでくるばかりで、そこには誰もいない。

 彼が眉をひそめた瞬間、黒い影がゆらりと農具の隙間を通り抜けたのが目の端に映った。

「父さん?」

 たまらず声を掛けるも、返事はない。ふたりの恐怖心を煽るように、白い光がぽつりぽつりと闇に浮かび上がる。イザベラは彼の腕にすがりつきその不気味な光を凝視した。

 自分たちを脅かす、ふたつの小さな輝き。それが一体なんなのか、彼らはすぐにわかった。

 あれは侵入者の双眸だ。瞳が月光のように光っているのだ……

 こちらの方を見ていると認識した瞬間、ふたりは総毛立った。震える息を吸い込み叫ぼうとしたイザベラの口を手のひらで塞ぎ、ヘンリーは物音を立てぬよう無言で指示する。

 侵入者は静かな足取りでゆっくりと着実に近づいてきていた。正面の扉からイザベラを逃がすことは危険だ。そう判断し、彼女を隅に積んである干し草の山の陰に隠すと、彼は傍にあった草刈り用の鎌を手に取った。そしてゆっくりと壁伝いに歩き、侵入者の背後を取る。服の上からもわかる屈強な体躯――自分よりもずいぶん背の高い男だ。彼は一瞬怯んだが、汗ばむ手で鎌を握り直し怒鳴った。

「誰だ!ここはうちの納屋だぞ……出て行け!」

「出て行け?以前あなたのお父様にいつでも出入りしていいと許可を頂いているのですが……」

「でたらめを……!早く出て行かないと力づくで追い出すぞ!」

 彼は叫び、手にしている鎌を振りかざす。

「そんなものを持って……物騒だな」

 振り向きもせず、侵入者は肩を揺らしながらくつくつ笑った。そして警戒する様子もなく無防備にくるりと振り向く。天井の小窓から差し込む冷たい月明かりが彼の貌を照らした。

 そこにいたのは、口元に微笑を湛えた麗しい男。白銀に輝く瞳は畏怖を感じるほどの美しさだ。

「こんばんは。おちびさん」

 透き通るような声を響かせ、美しく並んだ白い歯を唇の隙間にのぞかせる。そしておもむろに首を回らせ、辺りを伺い見た。

「おや……?ふたりで入って行ったと思ったのに。もう一人はどこかな……」

「出て行けっ……!化け物!」

 叫んだヘンリーは素早く屈み込み、足元に転がっていた石を拾うと相手の顔に向かって投げつけた。それは勢いよく額に当たり、リュシアンは指先でそこに触れる。しかしそうしたときにはすでに傷口は塞がり跡形もない。

 彼は額に残った血の痕を指で拭い、にこりと笑った。

「あまり怒らせないでくれ。とても腹が減っていて気持ちの余裕がないんだ……抵抗されたら、やさしくできないかもしれない」

 すいっと足音も立てず近づいたリュシアンは、汗みずくになり固まっているヘンリーを両腕で絡め取りやわらかく抱きすくめる。

 青年の耳に冷たい吐息が掛かった。

「メインは後でゆっくり食すとしよう。君は、」

 微笑む唇から紡がれる甘やかな声が鼓膜を震わす。

「前菜としてちょうどいい」

 リュシアンは細く美しい指で後頭部の髪を鷲掴むと、月明りを浴び青白く染まる首に唇を寄せた。

 開いた口の中、長く伸びた牙が光る。ヘンリーが恐怖に震える息を吸い込んだ瞬間、鋭利なそれが首筋の薄い皮膚を破り、深々と穿たれた。

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