18話
「いい返事は聞けませんでした。検討してくれと伝えましたが、あの様子では応じてもらえないでしょう。アルベスク様からの支援は望めないと思っていた方がいい」
思慮深い眼差しをテーブルから上げた神父は、低めた声で続ける。
「小領主が決まるまで、聖職者への謝儀の一部と、修道院が経営する薬局や食料雑貨店での売り上げを全額、救貧院と診療所に寄付します。微々たるものですが」
「修道者の方たちは納得するでしょうか?ただでさえ質素な生活だというのに」
「自らの富を分け与え、常に清貧であれ……それが神の教えです。このようなときこそ信仰心が試される。誰が真の信徒で誰がまがい物かを見極める、よい機会となるでしょう」
ジョンストンは生真面目な顔で相槌を打ち、
「迅速に事を進めるとしましょう。ベルティ殿の呼び掛けにレイモンド公爵が応えてくださるかはわかりませんけれど……もしもいい返事をもらえたら、早急に町を視察していただきます」
口早に言うと、どこか落ち着かない様子で立ち上がった。装飾のない地味な帽子を被り、ふたりに一礼すると部屋を出て行く。
彼が去った扉からトマス神父が視線を外す。そして、ゆっくりと首を回らせマクドウェルの方を見た。それに気づいた彼は、扉の方に目を向けたまま言った。
「リュシアン・アルベスク様は本当に、今回の殺人事件と無関係だと思いますか?神父様」
「私は彼が潔白であると信じます」
静かな声でマクドウェルの問いに応え、トマス神父は口の端に小さく笑みを浮かべる。
目を合わせた彼はその微笑みにも心を解きほぐすことなく言った。
「最初の事件が起こった時から私は、犯人はあの城の人間ではないかと考えてきました。特に強く疑われている城主アルベスク様は城に籠っていたため、事情聴取の機会をずっと待っていたのです。今回は絶好のタイミングでした。なのに……事件に関してなにも聞けず、終わってしまった。なんだか雲を掴まされたような気分です」
マクドウェルはリュシアン・アルベスクを真犯人と見ていたが、彼のことを悪魔だのなんだのと騒ぎ立てる民衆のことは心底軽蔑していた。よからぬ噂が世間に浸透するほど悪目立ちする存在なことは否定できないが、彼はれっきとした人間だ。悲惨な出来事をすべて神の敵すなわち悪魔や怪物といった類のしわざだとするのも、あまりに短絡的である。信仰心とは時に人の目を曇らせるらしい。
耳に入ってくる情報を精査しつつ彼は調べを進めてきた。事件が起こる前からあの城に関する不審な目撃情報が相次いでいたのは確かだ。リュシアン・アルベスクは悪魔ではないだろうが気の狂った殺人犯の可能性は十分にあると、彼は考えていた。
命を弄ぶ悪鬼の本性を暴いてやろうと意気込んでいたがしかし、実際に話をしてみれば何のことはない……そこにいたのはただの偏屈な美青年である。正直拍子抜けした感があった。
「アルベスク様をまだお疑いなのですね。彼が悪魔か怪物なのではないかと……」
神父の声に、マクドウェルは顔を上げる。
「私は悪魔の類なんぞ初めから信じてはいません。ですが、アルベスク様が犯人である可能性が残る限り調査を……」
言い掛けて、マクドウェルは急に声を詰まらせる。その顔が青褪め、手に持っていたパイプがテーブルに落ちて硬質な音を立てた。椅子を倒して立ち上がった彼は、胸元を掻きむしりながら体を深く折り曲げ、床に両膝をつく。ごぼごぼと不吉な音が喉の奥でしたかと思うと、鼻孔と唇から真っ黒い液体が吹き出た。
「彼をむやみに疑うのはもうおよしなさい」
背中を波打たせながら苦しそうに咳き込んでいる彼を無感情な眼差しで見つめながら、トマス神父は抑揚の少ない声で言った。
「隠れるように暮らす者はこの町にもたくさんいます。経験からの勘だけで動けば真実を見過ごすことにもなりかねません」
そう淡々と言葉を継いだトマス神父は次の瞬間目を見張って、口元を手のひらで覆う。開こうとした唇が、自分の意思でなくぎゅっと引き結ばれるのを感じた。
縫い閉じられてしまったかのような唇を懸命に開こうとすればするほど、奥歯の噛み締めが強くなり口が開けない。彼は恐怖に慄きながら胸の裡で己に問うた。
あの男を疑うのはもうやめろ、だと?果たして自分はマクドウェルに対しそんなことを言いたかったのだろうか?
――違う。口が勝手に動いたのだ。
首を微かに左右に振り、トマスは背筋を震わせた。
(リュシアン・アルベスクは危険な男だ。目を離すな)
訴えるようにマクドウェルを見る。視線の先の彼は床に倒れ込んだままぴくりとも動かなくなっている。
脂汗を額に滲ませ、慎重に椅子から立ち上がった神父はマクドウェルの傍に膝をつき、色をなくしている頬を叩いた。重そうに目を開けた彼の手を掴み、もう片方の手で首から下げたメダリオンを握りしめる。
声が出せない神父は胸の中で必死に祈った。その目の奥には、リュシアンが灯した白銀の火が小さく燃えていたが、祈りの文言が紡がれるにつれ、その光は静かに消えていった。
リュシアンはジャーメイン城の尖塔に立っている。深い夜だ。灯はない。濃い闇に沈むケンプベルは静まり返っている。
広がる街並みを見渡していた彼の美しい両目が、ひとつの巨大な建物を捉える。半球体の屋根と、時を告げる鐘楼。ケンプベルの民の心の拠り所となっている、たったひとつの教会だ。
「聖ラディウス……」
月明りの下、アイスブルーの瞳を輝かせ、彼はふと笑みをこぼす。
マリアンヌが本当に神のしもべとして生まれ変わったのかどうかを確かるため、リュシアンはこの教会に侵入することを決めた。闇に棲まう者の大半は聖域に足を踏み入れることすらできないが、上級魔物であるリュシアンには難しいことではなかった。
それでも教会の敷地内は神の加護を受けた場所であるため著しく魔力を消耗する。充分に魔力と活力を満たすことはもちろん、あらゆる事態を想定し準備を怠るべからずと、火の精霊イグニスは彼に忠告した。
魔力の源となる血液をほとんど摂取せず、本来の能力が発揮できない今の状態では、教会の門をくぐることすらできないだろう。計画を実行する前に枯渇した力を取り戻さねば。気が乗らないが、やるしかない。
これで最後だ……胸の裡でつぶやいたリュシアンは、ゆっくりと背中を丸めた。
地を睨むその瞳がアイスブルーから白銀に変わる。彼の背中が勢いよく膨張したかと思うと、やがて巨大な皮膜状の翼が上衣を突き破って飛び出してきた。
肩甲骨から生えたそれを2、3度はためかせると、リュシアンは軽やかに闇夜へと飛び立つ。




