17話
「人間だったころのように世間に馴染み、穏やかに暮らせる可能性がわずかでもあるならば」
火に照らされたリュシアンは神妙な顔で言うと、唇を引き結ぶ。
「なんと愚かな!」
吼えたトニトルスの顔がみるみる歪み変形していく。
全身が黒く覆われ鼻口が前にせり出し――彼は巨大な狼と化した。剥き出しになった牙を不気味に光らせ、彼は猛然とリュシアンに襲い掛かる。押し倒され肩に鋭い爪が刺さり、絹のフリルブラウスに血の花が咲いた。
「人の血をまったく飲まないだなんて、そんなことをしたら死んでしまうぞ。オレたちを置き去りにするつもりか」
「さっきの話を聞いていなかったのか?私は呪いに生かされている。死にはしないよ……」
「火の言うことを簡単に信じるな」
「私はマリアンヌと共に、光を浴びて生きたい。それが叶うならなんだってする」
トニトルスは全体重でリュシアンを床に縫いつけ、荒々しく肩を揺らす。黄金の虹彩がぎらぎらと狂暴な光を放っている。
生温い息と共に狼は低く唸った。
「光の許に逃がしてなどやるものか……オレたちはずっと闇のなかで生き続けるんだ。あのひとも一緒にな!」
「まったく……よく吠える四つ足だ」
リュシアンの虹彩がまばゆい白銀に染まる。すると次の瞬間、黒狼の巨体がふわりと宙に浮かんだ。天井付近まで持ち上げられた体は、彼が視線を動かした場所に向かって吹き飛んでいく。壁に激突し強かに体を打ちつけた狼は床に転がったが、すぐに身を翻して四肢を踏ん張り、再びリュシアンに飛びかかろうとした。
そのときだ。ちりちりと細く灯っていた火が爆発し一気に燃え広がった。
「まだ手向かうか無礼者!」
地鳴りのような声が響くと共に黒狼の体に火がつく。再び床に身を打ちつけた獣は痛みと熱さにのたうち回りながら悲鳴を上げた。見兼ねたリュシアンがやめるよう命じると、毛皮と肉を燃やしていた炎は一瞬にして消え去る。
「ああ、おいたわしや……。あなた様のような最高位の魔物がこのような下等生物に傷を負わされるとは……」
火は嘆き、しゅるしゅると纏まって元の通りひとつの塊になった。
「完全に人の血を断つということはすなわち今以上に魔力を失うということ……信念と願望がもたらす弊害を、ゆめゆめお忘れなきよう。あなた様を失墜させようと目論む愚か者はこの世に多くおりますゆえ、くれぐれもお気をつけ召されよ」
「イグニス!おまえがそれを言うか、二枚舌め!」
焦げた体を床に伏したままトニトルスが吠え、火を睨む。上体を起こし服についた汚れをはたき落としながら立ち上がったリュシアンは、襟を正し、狼の横腹をつま先で突いた。
「出て行け」
「言われなくてもそうするさ」
ふんと鼻を鳴らし吐き捨てた狼は、ゆっくりと体を起こす。そしてしなやかな四肢で床を蹴ると、開いたままの窓から庭に出て走り去った。
狼が床に残した血の痕の上で燃えながら、イグニスがリュシアンに囁く。
「まさしく水と油でございますね」
「それは貴様とあの狼の関係こそではないか」
「あなた様にお仕えし続けているのですから、似たもの同士と言えるのではないでしょうか」
「そうだろうか。私の目には双方相容れない真逆の存在に見える。トニトルスが私を裏切らず傍にいるのはマリアンヌの生まれ変わりに会いたいがためだ。特定の人物を恋しがるだなんて、実に人間らしいとは思わないか。奴が隠し持つ豊かな情動は、貴様には理解できまい」
「たしかに」
宙に浮かぶ火の玉は笑うように揺らめいた。
「今も変わらずマリアンヌを深く慕っているのだろう……驚いたことにあの狼は、400年という時を経ても彼女の肌の匂いを覚えていた」
リュシアンはトマス神父の座っていた場所に歩み、座面を見つめる。
「聖ラディウス教会の神父からマリアンヌの痕跡を嗅ぎ取ったようだ。彼女の魂は確かにこの地にある」
「教会を訪うとおっしゃられたときはご乱心召されたかと思いましたが……確信があったからこそのご決断だったのですね」
火が激しく光を放つ。それを見つめる彼の表情は、憂いに満ちている。
「どうされました我が主……。ようやく邂逅が叶うというのに、なにゆえそのように昏い顔をなさっているのです」
「無事転生していたことは嬉しい。だが神に生涯を捧げるくらい敬虔な信徒であるかもしれないと思うと、恐ろしくもある。私の正体を知ったら……手酷く拒絶されるに違いないからな」
火はなんとも言わず静かに燃えていたが、ほどなくして大きく笑った。
「なるほど、なるほど。我が主はまだそんなにも人間らしい感覚をお持ちでしたか」
微かに眉根を寄せたリュシアンは視線を外し、庭に面した大窓の方を見遣る。
薄墨色の雲が低く垂れ込めた世界はますます暗く、先ほどよりも大きくなった雨粒が大地に降り注いでいた。
ジャーメイン城を尋ねた翌日、男たちは古寂びた集会場リオナード邸に再び集まった。
「風変りな男でしたね」
マクドウェルは無骨な指で顎鬚を撫でながら、パイプの吸い口を噛む。
話の途中で退出したベルティは今日の召集に応じなかった。彼はリュシアン・アルベスクに見切りをつけ、独自のルートでレイモンド公パトリック・チェスターと接触を図ろうとしているらしい。
「ああいうのを浮世離れしているというのか……教養はあるが礼儀を知らないらしい」
つかみどころのない態度、そして比類なき美貌を思い起こしながらマクドウェルが言葉を続けると、椅子に行儀よく腰掛けたトマス神父が薄い唇を開く。
「リュシアン・アルベスク……あの男は、聖ラディウス教会の司祭が代々受け継いできた聖なる指輪に触れた」
トマスは左手を見つめた。薬指に、エピヌの星が彫られた指輪が嵌められている。彼はくすんだ輝きに目を細めて、「町の者たちが噂するような凶悪な人物ではなさそうだ」どこかぼんやりとした顔で、小さくそう言った。
「神父様を前にしても悠然とした態度を崩さず……聖具も恐れていませんでしたね」
ジョンストンは落ち着きなく膝を揺すりながら弱々しく笑う。トマス神父は相槌を打ち、
「少なくとも教会の脅威となる邪悪な存在ではないでしょう。いたって普通の――生命力に満ちた若く美しい青年……。手は、氷のように冷たかったが」
言いながら彼の手の感触を思い出す。指輪に唇を寄せ敬意を見せるなど礼儀正しく振る舞っていが、友好的であるとは思えなかった。こちらを見つめる瞳は少しも笑っていなかったのだ。
神父は漠然と違和感を覚えた。やはりどこかおかしい。あの城にはなにか重大な秘密があるはずだ。しかしそれを裏付ける決定的なものはひとつも見つからなかった。
不自然なものを感じているのはマクドウェルも同じであった。実のところ彼らはふたりとも、昨日の出来事を朧げにしか覚えていない。詳細に思い出そうとするも、ところどころ記憶が抜け落ちている。
ティーセットが載った銀のトレーを手に入室してきた彼の妹がどんな容姿をしていたかまったく思い出せず、出された飲み物の中身がなんだったのかも記憶にない。交わした会話や彼がどんな返答をしてきたか、それだけはかろうじて覚えているが、どのタイミングで彼と別れ家路についたのかわからない……気が付いたときには部屋着に着替え、ベッドに横たわっていた。
マクドウェルは精悍な横顔をふたりに向けたまま黙っている。心ここにあらずといった様子だ。各々が黙考するなか、ジョンストンがトマス神父に向けて言った。
「アルベスク様がどんな御方か、神父様に知っていただけてよかったです。悪しき者ではないとあなた様が断言してくだされば町の者も安心するはずです」
鷹揚に頷いたトマス神父は、「平穏な暮らしが戻ることを祈りましょう」静かにそう言って指を組んだ。
ジョンストンは、黙ってパイプをふかしているマクドウェルをなにか言いたそうな目で見つめたが、やがて微かに首を横に振り、溜息をついて神父に視線を流す。
「ところで、施設の運営資金の問題ですが……ベルティ殿と私が退出後、なにか進展はあったのでしょうか」




