15話
「その通りだよ。さすがは私の狼」
小馬鹿にするような言い方に気分を害した様子もなく、トニトルスは鼻腔を広げもういちど静かに息を吸い込む。
「フランキンセンス、シダーウッド、ガルバナム……ミルラ……。儀式の香か。胸糞悪くなるにおいだ」
「で?それがどうした」
「この強いにおいの中に……懐かしい、良い香りが混じっている」
その言葉にリュシアンの表情が神妙なものとなる。緊張と期待に胸をつかれ、思わずトニトルスに歩み寄った。
気づいた彼は手のひらを向けて立ち止まるよう促す。しきりに鼻翼を動かしながら目を閉じ、微かな香りの痕跡に意識を集中させる。
「間違いない。あのひとの肌のにおいだ……鼻先を撫でてくれた手の、花のような甘いにおい――」
トニトルスは薄いまぶたを上げ、美しくきらめく黄金の瞳でリュシアンを見た。
「今日ここにきた聖職者の近くにあのひとがいる。教会周辺地域をくまなく調べてみることだ」
「やはり聖域にいたか。神父に自分の香りを残すほど頻繁に教会に通っているだなんて、すいぶんと熱心な信者のようだな……」
「いや、説教を聞きに行っているくらいでは肌のにおいまで移らないぞ。あのひとと神父はかなり親しい仲に違いない」
それを聞いたリュシアンはきつく眉根を寄せ、宙を睨む。嫉妬に歪むその顔を見て愉快そうに口角を上げ、
「心配するな。交尾していたらもっと強い匂いがするはずだ。あのひとはおそらく、他の信者たちよりも教会と深く関わっているのだろう。ということは……」
言葉を切って、トニトルスはくつくつと笑う。リュシアンは腕を組み忌々しそうに目を細めた。
「聖職者か、修道者」
「かもな。ファヴィラの占いではミュリアス家の血を引くジーク・トラジェットの長女に生まれ変わると出ていたし、その可能性は限りなく低いと思うがね。まあ……聖歌隊の指揮者とかパイプオルガン奏者とか……そういう役目で頻繁に教会に出入りしている信者ってところじゃないか?」
「教会の内部関係者にしろ一介の信者にしろ、信仰心が厚いことには変わりない」リュシアンは苦渋の表情で続ける。「まさか神の足元に傅く者として生まれ直すとは」
「ジュディスはあんなに多くの愛人を囲って性に奔放だったのにな。姦淫を大罪とするクインレスタ教の信徒に転生するなんて、おもしろいもんだ」
「淫蕩三昧の日々を送っていたリタ・サロリナもクインレスタに出会って悔悛したという……色事を好む淫婦が神の光に触れ貞淑な乙女に生まれ変わってもなんら不思議はない」
「なんだ、ずいぶん聖典に詳しいじゃないか。まさか信奉してるのか?」
からかいを含んだ問いには答えず、リュシアンは宙を睨んだまま独り言ちる。
「転生するまで何百年もかかったのはこの運命を暗示していたのかもしれないな」
「肉欲に穢れた魂を清め神に仕える者として生まれ変わるために……400年以上彷徨ったと?」
「百年周期の転生が叶わなかったということはその可能性もある。もしくは……何者かに強烈な呪いをかけられて死んだか」
言いながらリュシアンは胸元に下がる懐中時計のチェーンに触れた。
トニトルスは物思いに耽っている様子の彼を横目で見遣り、
「なにがあったにせよ、百年周期で転生するという定説は崩れた。ひょっとしたら次回は千年経っても転生しないかもしれんぞ」
意地の悪いことを言って愉快そうに喉を鳴らしたが、リュシアンは軽くあしらい相手にしない。そんな彼に向かって、人狼は更に言う。
「クインレスタを信仰する者にとって魔物は天敵……憎むべき存在だ。あのひとがただの信者ではなく聖職者か修道者となり神に人生を捧げているとしたら、おまえは決して愛されないだろう。今回も血の契りを交わすことが叶わなければ、また気の遠くなるような時間を過ごすことになるな」
神父が座っていた椅子にどかりと腰を下ろしたトニトルスは、リュシアンを見上げ嘲笑った。
「いつまでもあのひとの顔色をうかがっているから何百年も待つはめになるんだ。それが嫌ならいいかげん自分の立場を自覚しろ。人間と同じ服を着て同じものを食べてもおまえは魔物……奴らを意のままに操り支配する側なんだよ。対等な関係でいようとするだなんて馬鹿げている」
「おしゃべりな狼だ。そろそろ口を閉じないか」
「人間ごっこなんてやめてさっさとあのひとを眷属にするんだな。大丈夫、すべてうまくいくさ」
「勝手なことを言うな」
鋭く放たれた声に、トニトルスは前髪の下の顔を険しくする。責めるような視線を受けながら、リュシアンはなおも続けた。
「自分本位な行動でマリアンヌを傷つけたくはない」
「情けねえなあ。人間の倫理観なんて捨てて魔族らしく堂々と振る舞えよリュシアン。抵抗するなら強引に犯してしまえ!白い肌に牙を突き立て血を啜れ!そうすればあのひとは永遠におまえだけのものだ。いちど契ってしまえばどんなに抗っても離れることはできないのだから」
「野蛮な獣め……」
「お高くとまっていやがる。おまえがあのひとのすべてを奪う気がないなら、オレがその役を引き受けてやってもいいんだぜ……」
「ジュディスが涙目になっただけで慌てふためいていたおまえに何ができるって?」
静かな口調でそう言われ、真顔になったトニトルスは目をくるりと回して天井を睨むと、溜息をつく。
「ああ、つまらん。あのひとが死んだらまた、待つだけの日々が始まるってわけか。さて……次に巡り会えるのは何百年後だろうな。考えただけでうんざりするぜ」
唇を尖らせつつぼやいたときだ。火の気のなかった暖炉が突如として燃え上がった。
「起きたか。イグニス」
気怠い声でリュシアンが呼び掛ける。




