14話
残されたマクドウェルとトマスは扉がゆっくりと閉まっていくのを暗澹たる思いで見つめていた。人の声が消えた室内には振り子時計が時を刻む音だけが響いている。
冷え冷えとした沈黙が満ちるなか、軽く咳払いしたマクドウェルが気まずそうに唇を開いた。
「彼はなかなかに気の短い男でありまして……ご無礼をお許しください」
わずかに頭を垂れうつむいた彼を横目に、トマスが重々しい口調で言う。
「寄付の件、どうかご検討ください。後日また改めてお伺いします」
「いつでもおいでください。歓迎します」
「ありがとうございます。貴殿も今度ぜひ聖ラディウス教会の聖堂へいらしてくださいね」
「私のような者が訪れてもよろしいのですか?」
「もちろんです。今週末には聖霊大祭が執り行われますのでぜひ」
「さようですか。では……参加させていただきます」
「信心深いお姿を見れば誰もが閣下に対する偏見を改め、敬意を払うことでしょう」
リュシアンは否定も肯定もせず、うっすらと笑った。
トマス神父が立ち上がると、マクドウェルもそれに倣って腰を上げた。扉に向かって歩き出した後ろ姿にリュシアンが言う。
「布教もほどほどにした方がよろしいのでは?」
ふたりは訝しげに眉をひそめ振り向いた。
「教会が魔物に門戸を開くとは、笑えませんな……」
清らかに澄み渡る薄氷のごとき双眸と目が合ったとたん、マクドウェルとトマスの顔から表情が抜け落ちる。
瞳の中に散る神秘的な光に誘われるように、ふたりは扉に背を向けリュシアンの方に歩いていった。重そうに足を引きずり、左右に揺れながら彼の前まで来て並び立つ。
その従順な姿を満足そうに一瞥すると、リュシアンは人差し指を自らの牙で傷つけ、血の滴る指先で床に小さな円陣を描いた。
片頬に笑みを刻んだ彼は口の中でちいさく呪を唱える。アイスブルーの虹彩が月光のように輝いた。
「すこし遊んでやろう」
笑みを含んだ声が響いた瞬間、円陣が燃え上がり黒い煙が沸き出る。その煙は、リュシアンの前に立ち尽くすふたりの目、鼻、耳、口――あらゆる穴から体内に侵入していった。
すべての黒煙を吸収した体がぶるりと震える。その衝撃に我に返った彼らは、夢から醒めたばかりのような顔で目をしばたたかせた。
「どうかなさいましたか?」
リュシアンは穏やかに笑っている。
彼らは質問に答えることができなかった。ぼんやりした顔で目の前の美丈夫を見つめるばかりだ。
白い歯を見せ笑ったリュシアンは、ついと指先を上げて言う。
「お帰りはあちらです。お気をつけてどうぞ」
大広間の扉が軋んだ音を立てながら勝手に開いた。マクドウェルも神父も、それをおかしいと感じていない。ゆるんだままの唇からこぼれた黒い涎が服の胸元を汚していることにも気づかず、茫然と突っ立っている。
リュシアンが犬を追い払うように手を動かすと、彼らは踵を返し覚束ない足取りで歩き出した。よろめき、互いにぶつかり合いながら、扉の向こうへと消えていく。
エントランスホールの大扉が閉まる音が響き、城内は再び静寂に包まれた。
広間の中央に立ち溜息をついたリュシアンはテラスの方につま先を向けた。大股で窓に近づき大きく開け放つと、小雨の降りしきる庭を見遣る。彼の視線の先……整地された小道に、みすぼらしい男が立っている。
「トニトルス」
リュシアンはあきれ顔で声を掛けた。
「なんだその汚らしい格好は。来客があると伝えておいたはずだぞ」
前髪の隙間からテラスを見上げてくる男――トニトルスは服の裾で泥のついた頬を拭う。太陽の光を宿したような黄金の瞳は燃えるように輝いている。
彼はリュシアンが使役するワーウルフだ。狼の姿になるとその体は美しい漆黒の毛皮に包まれる。獣に変身した彼は夜闇に紛れ人を襲い瀕死の状態になるまで弄んで、ときにはその肉を喰らう。
彼は足音も立てずゆっくりとリュシアンの元に近づきテラスに上がってきた。
「泥まみれじゃないか。どうせまたあの猫を追いかけまわしていたんだろう……それしか楽しみがないとは憐れな奴だ」
「おまえのために鹿を狩ってきたのにずいぶんな物言いだな」トニトルスは血と脂で汚れた指を舐めながら言う。「オレは首と腿の肉をもらう……あとは好きにしろ」
彼の動物的なしぐさを冷ややかな目で見つめたリュシアンは不快そうに眉根を寄せた。
「身支度を整えて18時に食堂に来い。遅れるな」
「急になにを言い出すんだ」
「いいから来い」
「いやだね」
「貴様を躾け直してやる。そんな格好のまま敷地内をうろうろするだなんて……客人らが不審がっていたじゃないか。これからも人前に出るつもりなら人間世界の最低限のマナーを学べ」
しかしトニトルスは小言など意に介さない。
「オレにああだこうだ指図する前に自分の力の衰退を嘆いたらどうだ」
その言葉を聞くなり溜息をついたリュシアンは大理石の手摺りに頬杖をつき、軽い口調で言う。
「近づいてくる邪魔な人間を退けることができればそれで十分だ」
「ちょっと人形遊びしただけで満足してるのかよ。本来のおまえならば百万の兵をも思い通りに操ることができるのに」言いながら汚れた手で大窓を開き、室内を覗き込みながら続ける。「遊ぶならもっと派手にやろうぜ……殺し合う人間を見るのは愉快だぞ。それに、勝てば一国の主になれる」
リュシアンは腕を組み小さく鼻を鳴らした。
「あいにく戦争は嫌いでね」
「戦嫌いでも領土や権力を得るため他国に攻め入る奴は大勢いる。おまえには野心というものがないのか?」
「今以上の地位は望んでいない。戦で得るものは私の手に余る」
「元人間様はご立派なことで……」
トニトルスはつまらなそうに言いながら、室内に一歩踏み込む。リュシアンは手摺りから体を離し、
「おい。まさかその格好で広間に入る気じゃないだろうな」
泥や砂で汚れている姿を睨むように見て言う。
「オレなんかよりも今日来た人間たちの方がよっぽど汚いし臭いじゃないか」
彼は笑いながら、リュシアンの制止も聞かず薄暗い室内へと入った。そしておもむろに辺りを見回し、空気の匂いを嗅ぐ。
「“ロンドール伯”として行儀よく振る舞ったみたいだな」
テーブルの上のティーカップに目を止めたトニトルスは、皮肉まじりに言葉を継いだ。
「未練がましいことよ……。人間だった頃の地位をまだ捨てきれないとは」
「高貴な身分であった方がなにかと都合がいいからそうしているまでだ」
リュシアンは長く伸ばした豊かな髪を掻き上げながら、素っ気なく答える。
――遡ること957年前。リュシアンはドラド大公国の名門貴族アルベスク家の次男として生まれ、結婚を期に父から譲り受けたロンドール州を統治していた。彼が若くして世を去ってからは兄がその役目を担った。
死後ヴァンパイアとして復活したリュシアンが再びロンドール伯を名乗り始めたのは、父母や兄弟、親戚、友人など、自分のことを知る者たちが全員逝去してからのことである。墓に埋葬されたはずの彼がなぜ領地を所持し、ロンドール伯爵として存在することができていたかといえば、魔物となったことで特殊な力が目覚めそれを利用していたからに他ならない。彼は人間に幻覚を見せ思考を操作することを得意としており、この能力をうまく使ってかつての爵位とロンドールの地を取り戻したのだ。リュシアンの周囲にいる人間はみな催眠状態になり記憶と思考を操作されていたため、彼が何百年ものあいだ存在していることに誰ひとりとして疑問を持っていなかった。人の生死を記録する公庁の役人もしかりだ。
そうして長らくロンドール伯としてひっそり生きていたが、国家間の戦争によってアルベスク家の立場が大きく揺らぐに伴い、彼の足場も崩れることとなる。
ヴァンパイアとなって800年以上が経過したある日のこと。マリアンヌの生まれ変わりを探し各地を転々としているさなか、彼の耳に不吉な情報が飛び込んできた。
ゼールラント帝国との戦争で、母国であるドラド大公国が敗戦を喫したのだ。援軍が到着する前に城が落ちて戦は終結し、ドラド大公アルフレード・ロマノはゼールラント帝国皇帝マキシム・ドノヴァンに権力を奪われ玉座を追われた。
大公の忠臣として仕えていたアルベスク家はそのあおりを受けて没落。帝国軍に迫害され一族郎党散り散りになったことを受けて、リュシアンはロンドールの地を自ら国に返還した。その際、皇帝ドノヴァンにより爵位のみ保持することを許され、名誉貴族となった彼は領地を手放して以降もロンドール伯を名乗り続けた。
ドラド大公国はそこから90年以上の長きにわたり帝国に侵略されていたが、今から3年ほど前ついにその支配下から抜け出す。国家復興のため一丸となった公国の民は若干15歳のウルフリッド・ロマノを玉座に据え新たな時代のスタートを切った。
こうしてドラド大公国の権威はロマノ家の手に戻った……しかしリュシアンはアルベスク家が代々所有してきたロンドールの地を再び我がものにしようとは思っていない。どうやら、まだ若く純粋な国家元首に催眠をかけ騙すような真似をすることに多少の罪悪感があるようだ。
統治する土地を持たず伯爵の肩書きだけを残すのみとなったものの、先祖ジャミール・カザビアンの時代から代々宰相として大公を支え、ドラド大公国の陰の支配者と囁かれるほどの力を手にしていた血統の権威は今も絶大なものである。アルベスク家と聞けばたいていの貴族は深々と頭を垂れる。故ルトマイア公がすんなりとケンプベルに迎え入れてくれたのも、この名と爵位のおかげだ。
「ここに座っていたのは聖職者だな?」
言いながら椅子のひとつに近づいたトニトルスは、その背凭れに鼻を寄せた。そこはリュシアンの席の真向い、確かにハリー・トマスという名の神父が腰を下ろしていた場所だ。




