144話
ベッドの上にいるエミリアが、涙に頬を濡らしていたとき。
煙るように降る雨のなか、修道士ギルバート・デインズはケンプベルの治安判事長ジョルジュ・ベルティからの情報を頼りに馬を馳せていた。
あの日ベルティが渡してきた紙には、所番地が走り書きされていた。地図で調べてみれば、それは聖シャルレット大聖堂からほど近い場所にある宿屋「青鯨の館」の住所であった。その一室に、彼の話していた盲人が潜伏しているらしい。
深夜にケンプベルを出発してから数時間後――まだ草木も眠る早朝に、ルトマイア州の州都ヨークエヴァに到着した。悪臭まじりの濃い霧が立ち込める目抜き通りを行くと、聖シャルレット大聖堂の円形の屋根がぼんやりと見えてくる。
宿屋は大聖堂前のシア・レイザ大通りを横切る小路沿いにある。数件の住居に挟まれた、見るからに安っぽい建物だ。道に落ちている汚物を踏まないよう慎重に馬から降りると、ギルバートは宿屋の入口に続く階段を上っていった。
すると、建物の中から荒々しい靴音が響いてくる。ギルバートが思わず足を止めると、ほどなくして扉が開き赤ら顔の肥った男が出てきた。階段の半ばで立ち止まっている彼を濁った目で一瞥すると、
「空きはねえよ。他をあたんな」
男はぞんざいな口調で言い、手摺から顔を出して路上に痰を吐き捨てた。遅くまで飲んでいたのか、離れた場所にいる彼のところまで酒臭い息が漂ってくる。
後ろ手に扉を閉めた男は、でっぷりとした腹の肉を揺すりながら難儀そうに階段を下りてきた。窮屈そうに脇をすり抜け石畳の道路に出ると、向かいの建物に一直線に向かっていく。
何をするつもりかと思い階段上から眺めていると、なんと人様の家の壁に向かって放尿している。ギルバートはあきれたように肩を竦め、その背中に言う。
「ここに盲目の男がいるはずだ。その男に会いに来たんだが」
男は緩慢な動作で脚衣の前ボタンを閉めながら振り向いた。
「なんだァ?あんた」訝しげに眉をひそめ、黒一色のローブを上から下まで舐めるように見る。「修道士か?」
そうだ、と短く答える。そして宿の入口を目で指し示した。
「いるんだろ?会わせてほしい」
聞こえているのかいないのか、階段を上ってきた男は生あくびをしながら屋内に戻っていく。
ギルバートは閉まりかけた扉を手で押さえた。薄暗い中に消えた男を戸口で見送ると、あとは物音一つしない。彼は途方に暮れたように溜息をつく。
すると暗がりの奥から言葉が飛んできた。
「なあ、あんた。そんなとこに突っ立ってないで、早く入って戸を閉めてくれ。クソの臭いが部屋に充満しちまうだろうが」
不機嫌な声に促され足を踏み入れたそこは、昼間の暑さが残っているせいかじっとりと蒸し暑く、淀んだ空気に満たされている。
ギルバートは肩に引っ掛けていたマントを脱ぎ、額に張りつく前髪を手で邪魔そうに掻き上げながら口早に言った。
「俺は聖ラディウス教会のギルバート・デインズだ。ここの一室に滞在している盲目の男に、急ぎの相談があると伝えてくれ。ルトマイア州ケンプベルの治安判事長ジョルジュ・ベルティの紹介だと言えばわかるはずだ」
男はなにも答えない。仄暗い中でにたにた笑いながら、上目遣いで見つめてくる。
「話を通してくれ。謝礼は弾むから、頼むよご主人」
「おれはここの主人じゃあねえよ。ちょいと留守を頼まれてるだけでさ」
間延びした口調で言いながら、勝手知ったる手つきでオイルランプに火をつける。それを持ってカウンターの向こう側から出てくると、彼は顎で階段上を示した。
「ついてきな」
男の後に続いたギルバートは、腐りかけている木製の階段を慎重に踏みしめて上の階に上っていく。
「使徒様の予知能力はやっぱりすげえや」
地方出身らしく、訛りの強い口調で男が言う。
「昨晩、デインズと名乗る若い修道士が来るから案内するようにとおれに言いつけてらしたのさ」
彼は引き攣った笑い声を上げながら狭い廊下を進み、どん詰まりにある部屋の前で足を止めた。ひとつ咳払いをすると、やけに恭しいしぐさで扉をノックする。
「使徒様、使徒様……」
ほとほとと叩き続けていると、錆びた鉄が軋む音と共に扉が内側から開いた。
男はすばやく廊下の端に退くと、中に入るよう促す。ギルバートは緊張した面持ちで扉をゆっくりと押し開け、室内に足を踏み入れた。




