142話
さっきまで晴れていたのに……そうつぶやいたマクドウェルは、馬車の窓から表を見遣る。どうやら雷雲の真下にいるらしく、屋敷に続く坂道をのぼり始めたころには外は土砂降りになっていた。
早朝に雷とはなんとめずらしい。顔を見合わせ驚いていると、急に馬車が停まった。どうやらぬかるみに車輪が嵌って動けなくなってしまったようだ。三人は仕方なく、屋敷までの残り数百メートルを雨に濡れながら歩いた。
執務室に入り、椅子にどかりと腰掛けたカールソンは、湿った髪を後ろに撫でつけながら言う。
「ああ、濡れたから寒いや。あたたかい飲み物をくれよ」
「シスター・エミリアの傷の手当てが終わってからな」
棚から薬箱を取り出したマクドウェルは溜息まじりに答えると、エミリアを寝椅子に横たわらせ、片膝をついた。
「止血して、包帯を新しく巻き直しましょう」
「いいえ……大丈夫です。大したことはありませんから」
そう言って頑なに手首を隠すので、しかたなく薬箱の蓋を閉めて立ち上がる。
「では、とりあえず冷めた体を温めるとしますか。紅茶を用意させますのでお待ちください」
マクドウェルは気さくな笑みを浮かべ部屋を出ていく。肘掛に頬杖をついてその後ろ姿を見送ったカールソンは、目だけをエミリアに向けた。
「いつもはがさつでデリカシーのない男なんだけど、シスターにはやけに優しいな」
ふふと意味深に笑って、彼は言葉を続ける。
「自分のことを無神論者だなんて言っているけどさ……彼は神学校出身でね。幼い頃はアルバロ少年合唱団の一員として聖杯会に在籍していたし、本来はとても信心深い男なんだ。だからきっと、修道者であるあなたを無意識のうちに特別視してしまうんだろうな。それに……」
そこまで言って、彼はふと口を噤んだ。睫毛を伏せ、微かにかぶりを振る。
「――マクドウェル様はなぜ信仰を捨てたのですか……」
小さく問うたエミリアは力なく横たわったまま、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「ありきたりな理由だよ。神の紡ぐ運命は残酷で、どんなに祈っても願っても救われないと気づいてしまったからさ」
スツールに乗せていた足を下ろして椅子から立ち上がったカールソンは、チェストの上のデキャンタを手に取る。蓋を取って匂いを嗅ぎ、ブランデーだとわかると顔を輝かせて振り返った。
「紅茶を待っていたら凍え死んでしまいそうだ。軽く一杯いかがです」
彼女の返事を待つより先にグラスに注ぐと、エミリアの方に差し出した。傷の痛みを苦痛に思っていた彼女は、アルコールで和らげられることを期待して上体を起こし、彼の方に腕を伸ばす。
エミリアが反応を見せたことを嬉しく思いながら微笑んでグラスを渡そうとした瞬間。カールソンの目は、驚愕に見開かれた。
「大変だ!血が……」
慌ててグラスを置くと、テーブルを回り込んでエミリアのかたわらに膝をつく。
彼はそっと左腕を掴み、汚れた袖口をめくった。真っ赤に染まった布から血がしたたり落ちている。そのことに自分でも気がついたエミリアは咄嗟に左手首を押さえて隠し、カールソンに背を向け立ち上がった。
ふらつきながら顔を伏せて足元を見れば、いつのまにか床に血だまりができている。
「急に動いちゃだめだ!危ないぞ」
「アレックス?どうした」
緊迫した声を聞きつけたマクドウェルが廊下から顔を覗かせ、足早に近づいてきた。
「傷から大量に出血してる……チャーリー、親父さんを呼んだ方がいいんじゃないか」
「いや、俺が処置する」短くきっぱりと言うと、エミリアの肩を抱いて寝椅子に戻るよう促した。「さあ、ここに横になって。動かないでじっとしていてください」
クッションを枕にし寝かせると、血塗れになった修道服の袖口をまくり上げる。
エミリアの手首に巻かれていた布は木綿のハンカチーフであった。血でぐっしょり濡れているそれを慎重に外してみれば、ひどい。細い手首の端から端まで切り裂かれている。まっすぐに通ったその裂け目は、血と脂で爛れたようになっていた。
「これは……切創か。だいぶ深いな」
眉をひそめたカールソンを横目にマクドウェルは使用人を呼び寄せ、針と木綿糸、清潔な包帯、布、そして水を入れた大きなボウルを用意するよう指示する。
忙しなく動き回る人々を目で追いながらエミリアは、緊張に顔を強張らせている。そんな彼女を安心させようと、マクドウェルは穏やかな笑みを向けた。
「どうかこの私にお任せください」
力強い声でそう言い、小さな白い手をやさしく握りしめる。




