141話
目を覚ますと、聖ラディウス教会の聖堂にいた。
香と蝋の甘い匂いが鼻先を撫でていく。長椅子に横たわっていたエミリアはゆっくりと体を起こし、まだ眠りから抜け出せていない顔で辺りを見回す。
誰もいない堂内は薄明るく、しんと静まり返っている。祭壇のクインレスタ像を囲む蝋燭が淡い光を放ちながら燃えていた。
外からの明かりを信者席に投げかける天窓が青に染まり始めている。どうやら夜明けが近いようだ。
「――リュシアン……」
無意識のうちに名をつぶやき、震える息を吐く。
左腕に痛みを感じ目を落とすと、手首に巻かれた布に血が滲んでいる。トニトルスが手当してくれたに違いない。
ステンドグラスの前に居並ぶ聖人たちを茫然と眺め、エミリアは立ち上がった。そのままふらふらと祭壇に近づき靴を脱ぐと、クインレスタ像の前に跪く。そしてリュシアンから預かっている懐中時計をベルトに下げたポーチから取り出し、冷たい手の中に握り込んだ。
祭壇を見上げる彼女の目に、柊の葉のリースが映る。これは魔除けと守護の意味を持ち、クインレスタ教のシンボルとなっている。
魔道を進むことを選べばきっと神の怒りを買う。いつの日か、この聖なる葉の棘に傷つき苦しむときがくるだろう。
エミリアは組んでいた指を解き、祈り火の光に照らされるクインレスタを見つめ上げた。
ゆったりと腕を広げ微笑む聖像。薄く開いた唇は、今にも語りかけてきそうに見える。慣れ親しんだ慈愛の微笑を記憶に刻み、彼女はひとり黙って落涙した。
頭上で鐘の音が響く。礼拝の時間だ。懐中時計をポーチにしまったエミリアは濡れた目と頬をぬぐい、他の修道者と遭遇する前に聖堂を出た。正門を開け、人けのないチャペル・ロードを歩き出す。
しとしとと雨が降り始めた。遠くの空がまたたき、雷鳴が響き渡る。エミリアは用水路に掛かる石橋の上で立ち止まり天を振り仰いだ。不気味な色の雲が生き物のようにうごめきながら、風に流されていく。
頭の中は霧がかかったようにはっきりせず、なにひとつとして現実味を持たない。土を踏みしめる足ですら自分のものでないように思える。すべてが色褪せて見え、心細く、不安だった。まるで悪夢に閉じ込められているかのようだった。
徐々に勢いを増してくる雨に濡れながらおぼつかない足取りで歩いていると、正面から二頭立ての馬車がやってきた。エミリアは道の端に避け、顔を背ける。
泥を跳ね上げ走り来たる馬車は、うつむく彼女を通り越したところで速度を緩め、やがて完全に停止した。
扉が開く音に続き、濡れた地面を踏み締める気配がした。エミリアは足音が近づいてくることに気づいていたがそちらを見ることはせず、馬車の進行方向とは逆側に歩き出す。すると、背中に大きな声が飛んできた。
「シスター・エミリア!」
聞き覚えのあるその声に思わず振り向くと、そこには元治安官チャーリー・マクドウェルが立っている。キャビンの扉から顔を覗かせ手を振っているのは、彼の相棒アレックス・カールソンだ。
マクドウェルは折り畳んだ新聞を頭上にかざして雨を遮りながら、驚き固まるエミリアに駆け寄った。
「この雨だ、乗って行きませんか」
いつものように晴れやかな調子で声をかけたがしかし、エミリアは顔を強張らせ身じろぎもせず佇んでいる。
「どうかされましたか?シスター……」
言いかけたその瞬間、にこやかだった表情が凍りついた。
彼女の左腕――純白の袖口が、赤黒く濡れている。
「血……?どこかお怪我をされたのですか?」
その言葉に真っ青になったエミリアは、すばやく身を翻して雨の中を駆け出した。
「お待ちください!」
マクドウェルは咄嗟に手を伸ばし、彼女の細腕を掴んで引き留める。
「そっちは森ですよ。早く診療所へ行って医者に診せなければ……」
込み上げる感情に胸が詰まって声も出ず、エミリアは無言で唇を噛む。
「なにか事情がおありのようですね」マクドウェルは彼女の菫色の瞳を覗き込んで浅く頷き、「教会まで送ります。手当てをして、暖かい場所で休んだ方がいい」
そう声を掛けたが、エミリアは胸の前で指を組み黙り込んだまま、蒼白の顔で震えている。明らかに様子がおかしい彼女を見て、マクドウェルは不穏なものを感じ取ったようだった。
「――診療所にも行かず教会に帰る気もないのなら……我が屋敷へお越しください。さあ、参りましょう」
エミリアの腰に腕を回して抱き上げ、半ば強引にキャビンに押し込む。
馬車は大きく左右に揺れつつ未舗装の悪路を再び走り出した。大粒の冷たい雨が屋根を叩く音を聞きながら、彼らは一路マクドウェル邸へと向かう。




