140話
時が止まったかのように、ふたりは眼差しを交わし合う。
リュシアンの指先がエミリアの頬に触れた。そのまま両手でやわらかく包み込むと、躊躇いもなく顔を寄せ、額や鼻先にキスの雨を降らせる。やさしいくちづけにうっとりと目を細めたエミリアは、美しく輝く白銀の双眸を覗き込んだ。
「もう我慢しなくていいのよ。リュシアン……」
ベールを外しながら艶然と微笑むと、リュシアンの首に腕を回す。それに応えるように細腰を優しく抱き寄せた彼は、亜麻色の髪に頬ずりした。甘やかな声で古の言葉を紡ぐ唇が頬や耳をなぞり、首筋を辿る。
胸元のボタンがひとつひとつ外され、あらわになった白肌を冷たい舌がなぞった。与えられる快楽に恍惚とし背を弓なりに反らせたエミリアは、薄く開いた目を潤ませる。
瑞々しく甘美な肉体を隅々まで蹂躙し味わいつくすつもりなのか、リュシアンは修道服のスカートをたくし上げ柔肌に触れた。抜けるように白い太腿を指でなぞりながら、無防備な喉元を甘噛みする。彼からの愛撫を全身で享受するエミリアは艶めかしい笑みを浮かべ、震える吐息を漏らした。
倒れ伏した黒狼は、睦み合うふたりを遠のく意識の中で見つめる。
エミリアの瞳は完全な白銀に染まっておらず、いつもの菫色を残している。魅了されているのは確かだが、完全に精神を支配されているわけではない。つまり彼女は自ら身を捧げようとしている。
精気に満ちた処女の血液で乾いた喉を潤せば、魔力は限界まで満たされるはずだ。リュシアンは正気を取り戻すだろう。
しかし――
(こんな形でエミリアが犠牲になることを、あいつは望んでいない)
トニトルスは残っているわずかな力を振り絞り身を起こす。ざわりと体毛が揺れたかと思うと、再び人の形を取った。
「リュシアン……」
彼の耳にくちづけたエミリアは誘惑するような声でその名を呼ぶ。艶笑を浮かべたリュシアンは唇の隙間から鋭く尖った歯を覗かせた。冷たい吐息が首筋に掛かり、鋭利な牙の先端が彼女の肌に触れる。
その瞬間、狼の怒声が雷鳴のように響き渡った。天地を揺るがす凄まじい咆哮と共に突風が吹き荒れる。立っていられないほどの猛烈な風にあおられ、リュシアンとエミリアは床に倒れ込んだ。
トニトルスはリュシアンの首を後ろから鷲掴みにしエミリアから引き剥がすと、渾身の力で投げ飛ばす。
「悪いなリュシアン!エミリアはオレがもらっていくぞ」
血塗れの口で吠え、人狼は呵々と笑った。
リュシアンは宙でふわりと翻り、受け身を取る。半分夢を見ているような顔を上げ、舌先で唇を舐めながらエミリアの方を見つめた。
トニトルスはリュシアンの目から守るようにエミリアをきつく抱きしめる。
「離して!」
彼の腕の中で激しく抵抗しながらエミリアは、リュシアンの元に戻ろうと身を捩った。
トニトルスは暴れるエミリアを難なく肩に担ぎ上げ廊下に飛び出すと、指の腹を噛みちぎって血の結界を張り、扉を封じる。
「こんなものすぐに破られちまう……逃げるぞエミリア!」
「いやよ!」
取り乱し泣き叫ぶエミリアを下ろしたトニトルスは、逃れようとする彼女の薄い肩を掴み、強引に瞳の奥を覗き込んだ。
身に宿る祈り火の力のせいか、白銀の炎はすでに消えていた。紫水晶を嵌め込んだような瞳が涙にきらめき、責めるようにトニトルスを見つめる。
「なぜ止めたの……」
か細い声でつぶやいたエミリアは、顔を手のひらで覆い隠しうつむいた。
「今のリュシアンは加減を知らない。正気を失ってるんだ、わかるだろ?あんな無防備な状態で身を任せたら血をすべて吸われて殺されるぞ!」
「彼は私を殺したりしないわ」
迷いなく言い切られたことで気勢をそがれたか、トニトルスは先ほどよりも語気を弱めて訴えかける。
「あいつに殺す気がないとしても……頼むから無茶なことをしないでくれ」
エミリアは小さく震えながらかぶりを振った。彼女の肩を掴む手に力を込めたトニトルスは、必死の形相で言う。
「ヴァンパイアとして生きる覚悟があなたにあるのか?吸血されてなお生き残った者は人ではなくなる。生き血を啜る不老不死の怪物になってしまうんだぞ」
「人としての生を捨てるつもりでここに来たの」頬に流れる涙を指で払い落とし、エミリアは顔を上げる。「だからお願い……止めないで」
彼女の双眸はまるで、暁天に燦然と燃える星のようだ。
その力強い眼差しに射貫かれたトニトルスは、胸の奥が熱く震えるのを感じた。生を享けて千年余りの時を生きてきたが、初めての感覚だった。
「戻らなくちゃ……彼のところへ」
涙をこぼしながら扉にすがりつくエミリアを背中から抱きしめた人狼は、大きな手のひらで彼女の目元を覆い口の中で呪を唱える。
古の文言が紡がれるにつれエミリアの体が弛緩していく。抵抗もむなしく、催眠状態に陥った彼女は四肢の力を失い、やがて深い眠りに落ちていった。
意識を手放したエミリアを胸に抱き入れ、床に膝をついたトニトルスは深い溜息と共に項垂れる。城の外に逃げなければと思うも、なかなか立ち上がることができない。
痛みを堪えるかのように表情を歪めた彼はもういちど大きく息を吐き、腕の中で眠るエミリアを見下ろす。
「――修道女として生きてきたあなたが……」
涙の跡が残る頬を親指で撫で、消え入りそうな声でつぶやいた。
「神の子であることを捨て、自ら地獄に堕ちるというのか?」
苦悶に顔を染めた人狼はエミリアの額に唇を寄せ、その身を掻き抱く。必死にリュシアンの元に向かおうとする姿を思い起こし胸の奥を震わせながら、静かに涙を流した。




