139話
背後のトニトルスが気付いていないことを目だけで確認し、皮の鞘から銀の刀身を抜く。
下唇を噛みしめたエミリアは、刃を左手首に当て、柄を持つ手に力を込めた。込み上げる恐怖に激しく震えながら、白皙の肌をゆっくりと切り裂いていく。
目の前のリュシアンの顔が涙に滲んだ。痛みに怯む己を奮い立たせるように息を大きく吸い込んで目を閉じ、勢いよくナイフを引く。開いた傷口からみるみるうちに美しい真紅が溢れ、こぼれ落ちた。
「おい!なにをしている!」
異変に気付いたトニトルスが後ろからエミリアの手首を掴む。床にナイフが落ち硬質な音が響く。
トニトルスの制止を聞かず、エミリアは血を流し続ける左手首をリュシアンの顔の上に翳した。とめどなくしたたり落ちる赤い雫――それが彼の頬や口元を濡らしたそのとき、初めて唇が微かな反応を見せる。
動きを止めたトニトルスは息を呑み、そのさまを凝視した。
エミリアはワーウルフの手を振り解くと、リュシアンに縋りついた。冷たい頬に触れ、優しく撫でる。柔肌を伝い流れる真紅がシーツに垂れた。
「リュシアン」
呼び掛ける声に反応し、何か声を発するようにうっすらと口が開く。隙間からのぞいた舌先が、血に濡れた唇を舐めた。赤く染まった舌を引っ込め味わうように口を動かしていたかと思うと、ふたたび物欲しそうに唇を開く。
エミリアは確信する……やはり人間の血が彼を目覚めさせるのだ。
「リュシアン、起きて。もっとあげるわ」
唇の動きが止まる。彼女の柔らかな声に導かれるように、白金色の睫毛が震えた。
その顔はすでにいつものリュシアンだ。透き通るような若々しい肌と薔薇色の唇、そして艶のある豊かな髪をもった、美しい男。
鎧戸の隙間から差し込む月明かりが、その端整な横顔を照らし出す。やわらかな月光につつまれたリュシアンはゆっくりとまぶたを上げた。
硝子玉のようにつやめく双眸……怜悧な輝きを放つ白銀の虹彩。それを見たトニトルスは咄嗟に手を伸ばしエミリアの目を覆う。
「逃げるぞ!」
叫ぶように言った人狼は彼女を強引に抱き寄せた。肘がナイトテーブルに触れてグラスが倒れる。まだ残っていた鹿の血がこぼれ、スカートを濡らした。
床に転がり落ちたグラスが割れる音と共に、リュシアンが静かに上体を起こす。表情の剥がれた冷たい顔がふたりに向けられた。
本能だけで動いている――そう悟ったトニトルスは全身に冷たい汗が滲むのを感じた。
ベッドから抜け出したリュシアンはゆらりと立ち上がり、覚束ない足取りでふたりの方に近づいてくる。
視線を合わせてはいけない、そう思いながらも、頭が勝手にリュシアンの方に向いてしまう。トニトルスは必死に顔を背けようとしたが、もう遅い。彼は完全にリュシアンの術にかかり、抗うことができない。
自分の意思でなく、エミリアの目を覆い隠していた手が離れた。魔力を吸われているのか、その顔は狼に戻りかけている。
「逃げろ……エミリア!」
硬直したトニトルスは絞り出すように言った。リュシアンはエミリアを奪うと、ワーウルフの胸元にそっと手を当てる。
「伏せ」
その一声で体の自由が完全に利かなくなり、為すすべもなく床に頽れた。
勝手に皮膚の下で骨と筋肉が動き変形していく――その不気味な音と共にのたうち回りながらトニトルスは、黒狼の姿に戻っていった。体に絡みつく破れかけた服を脱ぎ捨てる力もなく、漆黒の獣はぐったりと頭を落とす。
エミリアは逃げようとしなかった。虹彩の奥には、リュシアンの瞳と同じ白銀の光がちいさく揺らめいている。
うつむいた彼女は、口から血を流し倒れている黒狼と、割れたグラスとを交互に眺めた。そして無言のまま顔を上向かせ、まっすぐにリュシアンを見つめた。




