138話
リュシアンと多くの時を過ごした星見の森。
色褪せた緑が風にあおられて乾いた音を立て、夏の終わりを告げている。深まる秋の気配を感じながらエミリアは、やつれた横顔を陽の光に晒し小川のほとりに座り込んでいた。横に置いてある籠の中には、泥がついたままの野菜が入っており、洗われるのを待っている。
彼女の胸には、淡い期待がある……過ぎ去ったあの日のように、リュシアンが声をかけてきてくれるのではないかと。気難しい顔で近づいてきて、皮肉めいた言葉を口にし、そして――ふとした瞬間に、優しく微笑んでくれるのではないかと。
エミリアは子どものように脚を抱えて小さくなり、膝頭に顔を埋めた。彼女の足元にきらめく水面は早く緩やかに流れ去っていく。
(私は、彼に愛されていた……)
自信家で、こちらに対して不遜な態度を取り、時には突き放してきたこともあったリュシアンがまさか、拒絶されることを恐れているとは考えもしなかった。
いま、彼は、愛されたいという一心で血を絶ち、人間であった頃の自分に戻ろうとしている。魔物のままでいればいつか必ず嫌忌され、これまでと同じ結末を迎えることになると思い込んでいるのだ――
エミリアは涙に濡れた目を上げた。
そしておもむろに籠を引き寄せ黙々と野菜の泥を落とすと、重い足取りで修道院に戻っていく。
その日の夜、エミリアは再び掟を破って真夜中に自室を抜け出し、裏口から敷地の外に出た。頭上には神秘的な満月が煌々と光り輝いている。
ジャーメイン城の厳めしい大扉を叩くと、内側の錠が外され人の姿のトニトルスが顔を覗かせた。
「どうした」
何も持たずに来たのを見て、ほっとしたように表情を緩める。彼はいつエミリアが無茶をするかと気が気ではないのだ。
「リュシアンは……」
「まだ起きない」
硬い声で答えたトニトルスは、肩を抱いて城内に導き入れる。そして暗闇で目の利かないエミリアのため燭台に次々と火を灯していった。
彼女は、仄かな灯りの中に歩を進めながらフードを取り、マントを脱いだ。
「あれから彼の様子は?」
手燭を持って階段を上り始めたトニトルスに続き、口早に問う。
彼は足元を照らしてやりながら微かに首を横に振った。
「普通ここまで飢餓状態が続けば生存本能が働いて、血を求め見境なく大暴れするもんだが……元が人間だからなのか、“お上品”な性格だからなのか、その兆しもない。ただ大人しく横たわっているだけだ」
「――飢餓状態……」彼女は顔を曇らせ、消え入りそうな声で言う。「あれからまだ、ひとくちも飲もうとしないのね……?」
「森で仕留めた野兎と真鴨の血をやってみたが駄目だった。食卓でよくこの肉を食べていたから、なにか反応を見せるかと期待してたんだがな……」
トニトルスは苦い顔で言いつつ、リュシアンの部屋の施錠を解き中を窺う。
「大丈夫だ。眠っている」
室内の雰囲気は前回来たときとはまるで変わっており、ぞっとするほど禍々しい気配が漂っていた。
冷たい闇が肌に触れ、不安を掻き立てる。まるで雪に覆われた真冬の森の中だ。本能が逃げろと警告しているのがわかったが、エミリアは恐れを振り切ってリュシアンに近寄り、ベッドの脇に膝をついた。
彼は相変わらず紙のように白い顔を天井に向けている。以前見たときと同じ体勢だが頬は更に削げ眼窩は落ち窪み、疲れ切った老人のようだ。乾きひび割れた唇はきっちりと閉じられており、水分のなくなった肌には細かな皺が刻まれ始めている。
壁の燭台に火を入れたトニトルスは、チェストの上に転がっているワインボトルの一本を掴み取った。
「さっき狩ってきたばかりの雉の血がある。あなたが飲ませてみてくれ」
その言葉と共に背後から、くすんだグラスとコルクで蓋のされたボトルが手渡される。エミリアは瓶の中で重たげに揺れている赤い液体を注ぐと、ベッドの淵に腰掛けた。
「リュシアン」
彼女は静かに呼び掛け、首の下に腕を入れて上体を起こす。
「食事の時間よ」
鼻先に近づけ匂いを嗅がせたが、彼は以前と同じく、しっかりと唇を閉じたままだ。
エミリアはグラスの中に手を入れ、雪のように白い指を血に浸した。そして、真紅が滴る指先でリュシアンの唇を抉じ開け、美しく並んだ歯をなぞる。しかしそれでも反応を見せない。
このまま崩れてしまうのではないかと思うほど痩せて軽い体が痛々しい。エミリアは壊れものを扱うような手つきで、彼を元通りに横たわらせた。
唇を赤く染め、眠り続けるその姿を射るように見つめる。
――やはり動物の血では駄目なのだ。
ナイトテーブルにグラスを置いたエミリアは、ごく自然な動作で足元に手をやる。そして修道服のスカートを少したくし上げると、ブーツの中に隠していたナイフをするりと取り出した。




