136話
グラスをナイトテーブルに置いたエミリアはリュシアンの頭をそっと枕に戻すと、首元まで掛け布団を引き上げた。
深い溜息をついたトニトルスは腕組みをして壁に寄りかかり、エミリアの背中に言う。
「血液はオレが用意する。だからもう馬鹿な真似はよせ」
彼女は静かに首を横に振って、項垂れた。
「限界まで弱ってしまっているのね」
腰掛けていたベッドの淵から立ち上がり、トニトルスに振り向く。
「動物の血のにおいを嗅がせたくらいではもう、本能を刺激できない……だから反応がない。そうなんでしょう?」
「――いいや、違う。そんなことはない。今日はたまたま目を覚まさなかっただけだ」
「本当のことを教えてちょうだい」
「オレが嘘をつくと思うか?」
ベッドの脇に佇む彼女は小さな唇を引き結んだまま答えない。菫色の瞳は暗闇にいてなお淡く光っている。
今までに嗅いだことのない匂いが彼女から発せられているのを感じ取ったトニトルスは、びくりと身を震わせた。衝動的に前に出て、彼女の顔を覗き込むようにして近づきながら声を掛ける。
「エミリア」
「目覚めさせてみせる。私が、必ず……」
発せられた言葉に強い衝撃を受け、彼は足を止めた。
あなたには無理だ――そう言って鼻で笑おうとしたがしかし、できない。全身が震え、薄く汗が浮いてくる。
「リュシアンのためならなんでもするわ」
その声は穏やかなものだった。だがそれがなんとも不気味に感じられる。小さく唸り声を上げた狼は、得体の知れない恐怖に駆られ顔を強張らせた。
エミリアの心は純度が高い、それゆえに強い光を放つ。だが、光が強ければ強いほど影は色濃くなるものだ。その影の部分に彼は圧倒されていた。目的のためならば手段を択ばないという苛烈な意志。健全であると同時に不健全なその欲望。リュシアンへの愛を胸に秘めた彼女は、善悪の概念を越えた場所にいる。
「なにを考えているんだ、エミリア……」
青いベルベットのような闇のなか、エミリアは唇を結んだままトニトルスの方に顔を向け、微笑みかけた。
やわらかな表情を浮かべる彼女のかんばせはまるで星月夜に咲く白い花だ。戦慄を覚えるほどに美しい。
治安管理局の長官室。執務机の椅子に座ったレスノア子爵ジョルジュ・ベルティは、不機嫌な顔のまま訪問者を迎えた。彼の右手には羽根ペンが握られ、その指先はインクで黒く汚れている。
この忙しいときに来客とは……せかせかとインク壺にペン先を浸しつつ、苦々しい表情で舌打ちする。苛立ちを隠そうともしないベルティの前には招かれざる客――ギルバート・デインズが座っており、彼が文字を書く手を止めて顔を上げるか、声を掛けてくれるかするのを待っていた。
この様子だと、なにか厄介なことを持ち掛けられそうだ。そう察したベルティはもう一度小さく舌打ちした。エミリア・コレットに代わり、トマス神父の新たな腰巾着となったこのギルバートという男は、修道士でありながら欲深くでしゃばりであると噂に聞いている。あまり関わりたくないのが正直なところだが……彼は無愛想な面持ちで溜息を吐き、酒焼けした声で低く尋ねた。
「用件はなんだ」
「新たな祈祓師を紹介していただきたいのです」
あまりにも直球すぎるその言葉に、ベルティの口元がぴくりと引き攣る。
「亡きランドルフ・グラーツ博士は邪悪なるものに関する多くの知識と幅広い人脈をお持ちであったと聞き及んでおります。ケンプベルで起こった一連の殺人事件についても独自の説を展開し、解決に向けて尽力されたとのこと……そのような有能な方を他にご存じならば引き合わせていただけませんか。私には悪と戦うための知恵が必要なのです。どうか、あなた様のお力をお貸しください」
「独断でここへ来たと君は言っていたが……そんなつまらない嘘はやめたまえ。どうせトマス神父の差し金だろう。頼みづらいからといって組織の末端の人間を遣わすとは、聖杯会も落ちぶれたものだな」
「私は嘘などついていません。今回の訪問は神父様の指示ではないと、断言させていただきます。ですが……落ちぶれたという部分についてはおっしゃる通りです。神の教えを忘れた聖杯会は根元まで腐りきっている」
終始落ち着いた様子で淡々とそう言い、ギルバートは皮肉な笑みを浮かべた。
「神父様はもう教皇庁に頼るつもりはないようです。そのうえ、悪しき者の罪を見逃し、戦わずして平穏を取り戻そうとしておられます」
「クレア・オルビーの一件で、“罪を罰するのは人ではなく神である”というお考えからは脱却したのかと思っていたが……穏健派の日和見主義的な思想は健在であったか」
「トマス神父だけでなく、そもそもハントピグリー国教会自体が平和主義的すぎるのです。高位聖職者はみな富と権力に目がくらんで堕落し、邪悪なものと戦うための知恵も勇気も持っていない。多くの人の心から信仰心が失われ、あらゆる場所に魔が跋扈するこの時代……神の威光をふたたび人類に知らしめるためには、セルリオス教皇庁のように剣と盾を持ち戦わねばならないというのに」
「ずいぶんと勇ましいことを言うではないか」
ベルティは手紙を開きつつ鼻で笑い、
「――協力してやりたいところだが……今、レイモンド公からもいろいろ頼まれていてだな……」
ペーパーナイフの柄で頭を掻きながら言葉を濁す。
「レイモンド公爵が重用するような高名な方でなくともかまいません。私はただ、魔を退ける知恵を授けていただきたいだけなのです。お願いいたします」
ギルバートはなかなか諦めようとしない。
このしつこさと、手ぶらでやって来て面倒事を頼んでくる厚かましさ。なんと無礼で恥知らずな男だろう……軽蔑の目を相手に向けたベルティは溜息をこぼした。
聖杯会に属する修道者のほとんどが赤ん坊の頃に親に連れられてきた者たちである。要するに捨てられたわけだが、彼らは物心つく前から神について学び、厳しい戒律の中で信仰に生きることを教え込まれるため、良識を持ち礼儀をわきまえている。
ギルバートも聖シャルレット大聖堂前に放置されていたところを拾われ、教会に併設された孤児院に引き取られた身であるが――勤勉で心優しい他の孤児たちとは違い、幼少期から周囲の大人たちを困らせる悪童であった。
彼は人目を盗んで孤児院を抜け出し、頻繁に問題を起こした。秩序の崩壊した貧民窟に入り浸り、窃盗や詐欺の罪で収監されたこともある。
同年代の少年たちと徒党を組み悪さばかりしていた当時12歳の彼を修道院に引き取り改心させたのがハリー・トマス神父だ。
トマスはこの悪童と根気強く向き合い見事に更生させた。しかし礼節まで教え込むのは難しかったようだ――書簡に目を通しながらベルティは唸り、低い鼻に皺を寄せた。
「“自称”祈祓師ならばすぐに紹介することができるが、あなたたちは高尚な考えをお持ちだ。その人材に満足するとは思えんな」
「悪を祓える術を習得している方ならば“自称”でもかまいません」
「君がそれを決めるのか?正式に祈祓師と認められていない者を招くなど、神父様がお許しにならないのでは……」
「私の独断で来たと申し上げたはず。たとえこのことが神父様の耳に入ったとしても、あの御方は私を信頼してくださっていますし……なにも問題はありません」
ベルティは眉間の皺を深くしてペン先を見つめ、黙り込んだ。




