134話
放牧地を見渡せる小高い丘は、いつもの平穏を取り戻していた。エミリアの姿はすでになく、羊たちは座ったり寝転がったりして呑気に寛いでいる。
ギルバートは神父の見ている前で意気揚々と柵の中に入り、腹の下を血で汚している羊を捕まえ仰向けにした。「ここです」彼が指差すところを覗き込むと、神父は独り言つ。
「噛みついたのではなくナイフで刺し、傷口から血を採取した……」
「そうです。ここを刺し、木の椀に血を溜めて持ち去ったのです」
ギルバートの言う通り、羊の下腹には長さ10センチほどの傷があり、止血と鎮痛作用のある薬草を潰したものが塗り込められていた。乾いた土の地面をよくよく見ると、血が飛び散った跡が残っている。
だが、羊はギルバートの腕の中で暴れ、特に弱っているでもない。かなり出血したようだが、傷はそれほど深くなさそうだ。
「血を求めるのはヴァンパイア化の兆候か……それとも邪悪な儀式に使用するためか……」
「――ヴァンパイアとは?」
怪訝な顔をしたギルバートが低めた声で問う。
「人や動物の血を糧とする不死身の魔物です」
「なるほど……自分の喉を潤すために羊を襲ったということですね。やはりエミリアは悪魔に魂を売り、化け物となっていたか」
「私もその可能性を考えましたが――そうと決めつけるにはやはり無理があります。噛みついて血を啜っていたというのならまだしも、器に入れていたとなると……儀式かまじないに使うために採取したのかもしれません」
トマス神父は覇気のない顔を上げ、ギルバートを見上げる。
「羊は死んでいない。悪魔や魔物であると断言できる証拠も、人に害をなす呪術を行っていたという痕跡も見つからないとあっては、彼女を罪に問うことはできないでしょう」
「神父様!これは神に対する冒涜……修道者にあるまじき残虐な行為です!」
「落ち着きなさい、ブラザー」神父は激昂する彼をやんわりと制し、溜息まじりに続ける。「シスター・エミリアに対するゴドリック大主教の信頼は厚い。罪の証拠を見つけ尻尾を掴まなければ、あの御方のお考えを変えることはできません。彼女はこの先も寵愛され、多くの名誉を手にすることでしょう」
――名誉。そう小さく口にしたギルバートは、エミリアへの憎悪がますます勢いを増していくのを感じつつ言った。
「あの女が巧みに正体を隠し我々を欺き続けるつもりならば、今こそレイモンド公爵のお力を借りるべきではありませんか?彼の一声があればたとえ冤罪でも刑は執行されます。彼は異国人や異教徒のことを嫌っていますし、エミリアの出自やこれまでの所業を知れば放ってはおかないはずです」
しかし神父は首を縦に振らない。
「レイモンド公爵は過激な思想の男で、そのときの気分に任せ短絡的な結論を出すことも多いと聞いていましたが……聖杯会との関係性に影響する問題においてはかなり慎重な振る舞いをするようだ。枢密院顧問官アドワール・ユグナ様の話によれば、彼はマセス信者でありながらハントピグリー国教会を統率するゴドリック大主教とも積極的に交流し、どうやら多額の献金までしているらしい。おそらく大主教を懐柔してマセス教会の勢力を拡大し、長年対立しているミンテル教会を潰そうとしているのでしょう」
「だからなんだと言うのです!」
「ブラザー・ギルバート……まだわからないのですか?レイモンド公が聖杯会信者の多いケンプベルを手に入れた際に宗教論争が起こるような火種を持ち込まなかったのは、この町の教会にゴドリック大主教の“お気に入り”であるエミリア・コレットがいると知っていたからだ。そこまで大主教との良好な関係を重視している男が、罪の証拠もないなかで彼女を罰しようとするはずがありません」
「しかし……」
「シスター・エミリアは現場に証拠を残さなかった。羊は軽傷で、目撃者はあなたひとり。これではたとえ治安管理局に訴え出てたとしても、まともに取り合ってはもらえませんよ」
神父の言葉を聞きながらギルバートは、落胆した顔を地面にうつむけ、血が滲むほどに唇を噛んだ。
「ゴドリック大主教は、私がシスター・エミリアから副助祭の職を取り上げたことにひどく気分を害しておられます。役職を取り上げたことは間違いだったが、こんなにも多くの関係者を巻き込んでしまってはもう撤回はできない……」
「間違っていた……?いいえ、間違ってなどいるものですか。神父様はいつだって正しい」
茫然とつぶやくギルバートの肩を掴んで黙らせると、トマスは顔を近づけ声をひそめた。
「あなたは詰めが甘い。それに、自分に課せられた使命をいまいちわかっていないようだ。もう一度言いますから、よくお聞きなさいギルバート。この先二度と、判断を誤ることは許されません。物的証拠もなくシスター・エミリアを糾弾するなどもってのほか……これ以上ゴドリック大主教の機嫌を損ねるようなことをすれば、私の立場が危うくなる。彼の怒りを鎮め、エミリアを“正当な手段で”追放する方法は、彼女が神の敵であるという揺るぎない証拠を用意したうえで事実を明確にし、我々の判断が正しかったと知らしめること以外にないのです」
「――立場、ですか」
半笑いで口にすると、ギルバートは首を横に振って続けた。
「神父様……ご自分の保身のために、エミリアの罪を見逃すおつもりなのですか?」




