133話
ここのところエミリアは、食事室の利用を避けていた。家畜の世話をしたあと放牧地の木の下に移動し、そこでひとり朝食を摂っている。あのラタンバスケットの中には林檎やパンしか入っていないはずだ。
ギルバートの顔に、醜悪な笑みが浮かぶ。
こんな糞まみれの場所で食事をするわけがない。なにかよからぬことを企んでいるに決まっている――
期待する彼の視線の先で、エミリアが取り出したもの。それは小型のナイフだった。
調理場から持ってきたのだろうか。エミリアは用心深く周囲を見回してから、刀身を包んでいる布を取った。光を弾く白刃の鋭さを確かめるように、指先で軽く触る。
続けてロープと、なぜか木製の椀を取り出した。そして思いつめたような顔で柵の戸を開け、一か所に固まっている羊たちに歩み寄った。
「ほら、おいで」
いつもならエミリアの周りにまとわりついてくる羊たちが、今日は一向に近づいて来ようとしない。ナイフを後ろ手に隠していることを知っているかのように、遠巻きに彼女を見ている。
「大丈夫よ。怖がらないで……」
やさしく声を掛けながらエミリアは、群れから弾き出された一匹の白い羊に近づく。羊は身じろぎもせず、無垢な瞳で彼女をじっと見つめている。
厩舎の陰からエミリアの動きを観察していたギルバートは、山積みになった干し草や木箱の陰に隠れながら慎重に彼女との距離を縮める。
柵の横にある積み藁の陰に移動した彼が再び顔を出すと、エミリアはおとなしく佇んでいる白羊を両腕で抱きしめ地面に膝をついたところだった。
「ごめんなさい……」
エミリアは羊の横腹を撫でながら囁く。
やがて静かに体を離し、意を決したように顔を上げた。そして、持っていたロープで羊の片足を柵に括りつけ逃げられないようにすると、用意していた木の椀を胴体の下に置いた。
ギルバートが固唾を飲んで見つめるなか、エミリアは震えながらナイフの柄を握りなおす。
そこから先の彼女の行動に、躊躇いはいっさいなかった。危機を察したのか急に暴れ出した体を上から押さえつけるように抱え込んだかと思うと、毛が薄い下腹の部分にナイフを突き立てる。
我が目を疑うような光景を前に、ギルバートは危うく叫びそうになった。両手で口を押さえてそれを堪え、腰が抜けてしまったかのように尻もちをつく。
彼が凝視する先にいるエミリアは苦しそうに眉根を歪め、かたく目を閉じている。頭を振りながらもがく体を抱きしめたまま荒い呼吸を繰り返していた彼女は、ゆっくりとナイフを動かして、羊のやわらかな皮膚と肉を横一文字に切り裂いた。
傷口から溢れ出た血が器の底を叩く。とめどなく滴る赤は、雨のように降り注いだ。
生温いそれを手指に感じながらエミリアは自問する。
悪とは何か。善とは何か。
今、自分は邪悪なるものの誘惑に陥り理性を失っているのだろうか。
自問する彼女の蒼白の顔に苦悶の色は見えない。その表情は朝風のように冷たく冴えわたっている。
羊が己の腕の中で弱々しく鳴いているのを聞いたエミリアは、閉じていたまぶたを薄く開いた。こぼれ落ちてくる血が器に溜まるのを見つめながら胸の裡で取りとめもなく繰り返す。
悪とは何か。善とは……
ノックに応じる声を待たず、ギルバートが転がり込むようにして司祭室に入ってきた。喜びと興奮に頬を紅潮させ駆け寄ってくる彼に、トマス神父は汚いものでも見るかのような目を向ける。
「何事ですか。そんなに慌てて」
「神父様!ついに奴が悪魔の所業を……」
気持ちの昂りを抑えられず声が詰まる。まるで自分の善行を母親に報告する子どものように瞳を輝かせながら、ギルバートは続けた。
「エミリア・コレットは大罪を犯した!この町から悪魔を追い出す日がついに来たのです!」
高らかに叫び笑う彼を終始冷めた目で見遣っていたトマス神父は、かけていた眼鏡を外しテーブルに置くと、本を閉じた。
「いったいなにがあったのか、状況を詳しく説明なさい」
問われたギルバートは自分が見たものすべてを事細かにトマス神父に話して聞かせた。
その得意げな語り口は鼻につくが、内容には真実味があり虚言を並べているわけではなさそうだ。黙して聞いていた神父はひとつ頷き、
「教会内が静かだということは、まだ誰も気づいていないようですね。騒ぎになる前に確かめに行きましょう」
冷静な口調で言うと、彼と共に厩舎へ向かった。
その道すがら、神父は厩舎や馬房の扉を引き開けて中を覗いたが、家畜たちに特別変わったことはない。全頭おとなしくそれぞれの場所に収まっている。
しらけた顔をしている神父の機嫌を取ろうとするかのように、ギルバートはひっきりなしにエミリアの悪行について語りながら、件の羊のいるところへ彼をいざなった。




