132話
聖堂は乾いた秋の空気に満たされている。
やわらかな睫毛をふるわせ、エミリアは閉じていた目を開く。週に一度、誰もいない時間帯ならば礼拝してもよいという許可が下り、彼女は数か月ぶりにこの場所で神に祈りを捧げたのであった。
美しいアーチ形の天井より降り注ぐ日の光が、緻密な装飾に縁取られたステンドグラスや祭壇上に飾られた花のリースを輝かせている。それを見つめながらエミリアは、過去の自分と静かに対峙した。
我欲を捨て、富を追求することなく、奉仕に生きること。驕らず、人を憎まず、受け容れ癒すこと。犠牲を尊び、穢れを恐れ、真の愛を神に捧げること――これがクインレスタの教えだ。故郷の島にある小さな教会で初めて祈りを捧げてから20年、神の意に背くことなど考えもせず、ただ教理に忠実に生きてきた。
そんな生活に終止符を打つきっかけとなったのがリュシアンとの出会いだ。闇に生きる彼を愛してしまった以上、ここから先の道は己で選び、その選択の結果がもたらすものを背負わねばならない。
彼女は緩慢な動作で立ち上がり、靴を履く。そして脇に置いていたラタンバスケットを取ると、祭壇に背を向け歩き出した。
思い詰めたような顔で聖堂を出ていくエミリアの後ろ姿を見つめる鋭い目がある。
翼廊に建つ柱の陰から出てきたのはギルバート・デインズ。彼はマントのフードを深く被り、小走りで彼女の後についていく。その顔は隠しきれない憎悪に歪んでいる。
今から26年前。州都ヨークエヴァの聖シャルレット大聖堂の正門前に捨てられ、教会附属の孤児院で育った彼は、12歳のときに聖ラディウス教会の修道者となり今日まで真摯に仕えてきた。司祭ハリー・トマスを敬愛し、いつしか彼に右腕として認められることを夢見て厳しい修道生活を耐え忍んでいたが――彼の思い描いていた未来はエミリアによって打ち砕かれることとなる。
よその国からやってきた彼女はあっというまに神父の寵愛を得、たった数年で副助祭の役職までもを手に入れた。この役目を担うことは修道者の誉であり、将来的に司祭職を確約されたようなものである。
ギルバートは嫉妬と怒りに気も狂わんばかりであったが、人前ではそれを一切見せなかった。彼は親しい笑みの裏で、エミリアを激しく憎み蹴落とす機会をうかがっていたのだ。
禁じられているにもかかわらずジャーメイン城に出入りすることをやめようとしないエミリアが、なにか大きな秘密を抱えているだろうことはわかっている……この絶好の機会を逃すわけにはいかないと、彼は執念でエミリアを監視し続けた。必ずや彼女の悪事を暴き、教会から、そしてこの町から追い出し自分が副助祭の位につく。そしていずれはトマス神父の後釜に座り、聖杯会の影の支配者となるのだ。
憎しみに満ちた彼の視線に気づいていないエミリアは、中庭を避けて修道院の後ろをぐるりと迂回し、厩舎の方へ向かって歩いていく。太陽はまだ低く、草花についた朝露が修道服の裾を濡らした。
広大な放牧地を背にし厩舎の引き戸を開け放つと、餌を求める牛たちの賑やかな声が表に溢れ出てくる。
ベールを外し髪を結んだエミリアは、戸口に立って舎内を見渡した。
典礼や奉仕活動への参加を制限されている彼女は、畑仕事や敷地内施設の清掃だけにとどまらず、牧場で飼育している牛、馬、鶏、羊といった家畜の世話も全面的に任されている。ほとんどの修道者は、泥土で服が汚れたり糞尿の臭いがしみつくことを嫌がって、用がない限り誰もここには近づこうとしない。
ギルバートが換気窓から覗き見ているとも知らず、彼女は手に提げていたラタンバスケットを引き戸の前に置いた。そして修道服の裾を大胆に捲って縛ると、ゆったりとした歩調で中に入り清掃を始める。それが終わると干し草の束を解き、大人しく並んでいる牛たちの前に運んだ。
ギルバートが見つめるその横顔に、特別な表情は窺えない。木製の柵に寄りかかり、牛たちが干し草を食む姿をじっと眺めている。
そうしてしばらく食事の様子を観察していたが、やがてブラシとバケツを片付け厩舎を出る。置いておいた荷物を手にし、数頭の羊を囲っている柵の方に歩いていった。
毎日この調子だ。彼女の動向を見張りながらギルバートは、苛立たしげに親指の爪を噛む。その目は、捲られたスカートから伸びる真白い脚に吸い寄せられている。
エミリアはゆるやかに傾斜した砂の道を上っていき、羊のいる囲いの前まで来た。そして、情欲を孕んだ眼差しを向けるギルバートの前でラタンバスケットの蓋を開け中身を探り始めた。
――いつもと違う行動だ。気づいた彼は息を殺し、物陰から慎重に身を乗り出す。




