131話
「私はただの人間で、リュシアンの役には立てない……――彼はいつまで私を待ってくれるかしら」
自ら発した言葉が胸の裡を黒く塗り潰していく。
――トニトルスの話を聞いていればわかる。リュシアンは利害で動く冷たい魔物なのだ。残酷なやり方で突き放してきたのは、修道女と関係を深めても自分にとって何の得にもならないと考えたからであろう。そう思い至ったとたん、唇から勝手に言葉が迸り出た。
「そうよ……彼は運命という言葉に囚われて、惰性で私との関係を続けているだけ。何度巡り会っても結ばれないならそれはもう運命とは呼べないわ……。そろそろ、彼を解放してあげなくちゃ……」
「エミリア」
名を呼ばれ、弾かれたように顔を上げたエミリアは息を呑み、トニトルスを見つめた。
「さっき言っただろ。用心しろと」
顔を覆い隠す長い蓬髪を両手で掻き上げながら、彼女の元に大股で歩み寄る。そして、陽を受けた鏡のように光る黄金の瞳で、驚愕に見開かれている双眸を覗き込んだ。
思った通り、赤い光がちらついている。小さく舌打ちしたトニトルスは、断りもなくエミリアの細腰を抱き寄せると、赤い光の混じった菫色の両目を片手で覆い隠した。
「やめて……いきなり、なにをするの……」
「しっ。黙ってじっとしてろ」
短く言ったトニトルスは、彼女の耳元で不明瞭な言葉を囁き始めた。
この国の言語ではない。自我を失くしたリュシアンが口にしていた文言に響きが似ている。首筋を辿る彼の唇の冷たさを思い出したエミリアは胸がせつなく疼くのを感じた。
視界を覆い隠している手が徐々に熱を持ち始めると同時、暗闇が赤く染まっていく。エミリアは体を硬直させたまま、震える手でトニトルスの服を掴みきつく握りしめた。彼女の恐怖心を感じ取ったか、彼は静かな声音で言う。
「イグニスの火を見つめすぎると、邪念が棲みつく。ジャスミンもオルガもジュディスも――神の存在を信じていなかったから、あの火に精神を汚染され意のままに操られてしまった。祈り火フラーマの加護を得ていることを忘れず、気を確かに持てエミリア。あなただけは最後までリュシアンを信じてやってくれ」
ゆっくりと熱が引いていき、赤かった視界が穏やかな漆黒に戻る。
トニトルスが目元から手を離すと、一筋の青白い煙が彼の指に絡みつきながら消えていった。恐る恐るまぶたを上げたエミリアの頬を手のひらでそっと包み込み、菫色の瞳から赤い光が消えているのを確認した狼は、安堵の息のあとに囁いた。
「今から言うことを忘れないでほしい。リュシアンがあんな状態になるまで血液を摂取することを拒み続けたのは……エミリア、あなたを愛しているからだ」
その言葉を聞いたエミリアの下睫毛から涙がこぼれおちた。夜明けの空のように輝く瞳が、寝台の上のリュシアンを見つめる。
血の気を失った頬と唇。色をなくしてなお彼は美しく在り、魔物や化け物などという呼び名はまったくふさわしくない。凍りついた湖を思わせる肌は薄青く、繊細な白金色の睫毛は厳冬の朝に見る霜の結晶のようだ。
エミリアは、ロサ・リタ修道院の大階段の壁に掛けられている一枚の聖画を思い出していた。クインレスタの膝元に傅く4人の使徒が描かれたもので、そのなかのひとりであるセティ・レトはリュシアンに瓜二つだ。彼らは季節を司る神の使いとされ、セティ・レトは冬をもたらす者である。
エミリアは祈るように胸の前で指を組み、トニトルスに尋ねた。
「地下室に蓄えてある血液は?」
「すべて廃棄しろとのお達しでね。一本残らず処分しちまったよ」
彼は険しい顔になりながら言葉を続ける。
「本当にこのまま動物の血すら飲まずにいるつもりなんだろうか……。オレが森で狩ってきた鹿とか猪の新鮮な生き血を嗅がせると意識が戻ることがあったから、何度か飲ませようとしてみたんだが……口に入れてもぜんぶ吐き出しちまうんだ」
「牛や豚の血は試してみた?」
問われた彼は暗い表情で静かにかぶりを振った。
「各地の酪農家を訪ね歩いたけれど売ってもらえなかった。家畜は野生動物よりも栄養豊富で味がいいし試してみたいところだが、騒ぎを起こすなとリュシアンにきつく言われてるから黙って盗んでくるわけにもいかなくてな」
肩を竦め溜息をつく彼を見上げ、エミリアは目に涙を浮かべる。
「このままではリュシアンは……」
「死にはしない。だが、本能だけになって暴走する危険はある。つまり……あの夜のように我を忘れ、市井の人々を見境なく襲う可能性があるということだ」
「そんな……」
「心配するな。オレたちが必ず止める。この命に代えても」
「だめよ!」目に涙を溜めたままエミリアは、激しくかぶりを振る。「そんなことを言ってはだめ……」
「――エミリア。リュシアンが人間の血を一滴も飲まなくなってから、オレもファヴィラも覚悟を決めている。誰かが止めなきゃならんのだ」
エミリアは再度首を横に振り、唇を引き結んだ。
ベッドの淵に腰を下ろし、泥のように眠っているリュシアンの頬に触れる。冷たい肌を撫でながらエミリアは、哀しみに濡れた瞳で暗闇をまっすぐに見据えた。




